施:もちろん、本をきちんと読めば、個人主義的な個の確立のビジョンとは違うというのはわかります。孔子でいう「礼」をきちんと身につけ、徳を養って初めて自立した個人になれる。
人は、自分の生まれ落ちた社会の伝統、および、その中で培われてきた道徳を身につけて初めて個の確立が可能になるのだ、というのはしっかり読めばわかるんですけども。
ただ、「個の確立」と一言で言ってしまうと、誤解を招く恐れがあるというふうに思いまして。そこを少し整理していただきたいなと思いました。
中野:なるほど。ちなみに、儒教や中国においては、大場さんがおっしゃろうとしていた「個」というのは、なんと言われているんですか。
大場:それこそ、「君子」ですね。日本だと「武士」になると思います。確固とした世界観を自分の中で持っていて、伝統の文脈の中でそれを引き受けて自分自身で世界を創造していくんだっていう、明確な意志を持つ。それが一切他律的な要素を持たないことで、完全な「個」が出てくる。
それを中国思想の文脈では、君子とか、士大夫とか、あるいは日本だと武士っていう言い方をして。いわゆる社会的な地位とつねに一致していたんですけれども。現代日本においてそれを担保する社会的地位は存在しないので、ここの表現はたいへん難しかった。
一方で、じゃあ君子になりましょうって、仮にこの本で書いたりとか、武士を目指しましょうと言うと、回顧主義的な主張をしてるようになっちゃうので。正直表現はたいへん悩んだ部分ではありました。
施:ありがとうございます。よくわかりました。
中野:次は佐藤さんにご意見をうかがえますでしょうか。
思想でどこまで社会をつくれるか
佐藤:中国史を踏まえた中国思想の変遷の本として、この本は実に面白い。大場さんの説明とも多少かぶりますが、この変遷を私なりに整理すれば、以下のようになります。
最初はみんな、自由と秩序の間に適切なバランスをつくるにはどうしたらいいかを考えた。自由と秩序を両立できなければ、社会は際限ない弱肉強食になって収拾がつかなくなるか、息苦しい専制支配になるかのどちらかです。
こうして「形名参同」「礼教国家」「律令国家」といった、さまざまなシステムが考案されるものの、理想的なバランスはつくることができないか、つくっても長続きしない。そこで発想の転換が起こる。今まではマクロの視点から自由と秩序の両立を図ったわけですが、逆にミクロから始めたんですね。人々が個人のレベルで自己実現を目指すことが、積もり積もって社会の調和をもたらす、そんな状態はつくれないかという話になった。
社会の調和に貢献する自己実現ができる個人になることこそ「個の確立」であり、その境地に達した者が「君子」や「士大夫」である。この発想が朱子学を通じて陽明学へと流れ込んだ、私はそう理解しています。