「豊臣秀吉を支えた家臣たち」の上下関係のナゾ 五大老と五奉行、どちらが格上だったのか?

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一方で、そうした通説に誤りがあるのではないか、との指摘もある。まず五大老・五奉行の名称自体が当時のものではない。江戸時代になってから付けられたものなのだ(五大老は、江戸幕府の大老を基にして創られた名称と言われている)。

ここでは混乱を避けるため、便宜上、あえて、五大老・五奉行の名称を使うことにしたが、秀吉自身は「五大老」のことを「五人の衆」、「五奉行」のことを「五人の者」と呼んでいた。

また、石田三成ら「五奉行」の者は、自分たちのことを「年寄」と呼び、「五大老」のことを「奉行」と言っている。年寄というのは、政務に参画する重臣のこと。それに対し、奉行は上司の命令を奉じて政務を遂行する人と言える。

年寄と奉行では、年寄のほうがランクが上だったと言えるだろう。つまり、石田三成らは、自分たちを「年寄」、家康らを「奉行」と呼ぶことにより、自分たちのほうが、位が上なのだということをアピールしようとしたと思われる。

一方、家康らは「五奉行」を「奉行」と呼んでいた。ということは、家康らは自分たちこそ「年寄」(豊臣政権の重臣)だと思っていたのだろう。

五大老の仕事内容は?

では五大老の仕事は、どのようなものだったのかというと、1つは、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)後の朝鮮半島からの撤兵に関わること。2つ目は、謀反への対処。しかし、この2つは臨時のものであって、つねにある職務ではなかった。

3つ目は、領地の給与。秀吉の後継者・秀頼がまだ幼少であったので、代理で五大老が行っていた(もちろん、これは秀頼の意を奉じるもので、五大老が大名に対し、領地を与える権限はなかった)。この領地の給与が、五大老の通常時の職務だったと言える。

一方で五奉行は定期的に集まる日が設けられ、直轄地の運営や訴訟の処理など実務を行っていた(五大老が実務を担っていたというイメージがこれまであったかもしれないが、実はそうではなかった)。

五大老は日常的に一同が会談することはなかった。家康と前田利家は、五奉行から求められたときは、助言をしていた。五大老(特に家康と利家)は秀頼を補佐し、五奉行の相談に応える相談役・名誉職的な立場にあったと言えるだろう。

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