「豊臣秀吉を支えた家臣たち」の上下関係のナゾ 五大老と五奉行、どちらが格上だったのか?

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宇喜多秀家は、謀将として名高い宇喜多直家の子。備前や美作(岡山県)の大名として秀吉に仕える。秀吉の養女で、前田利家の4女・豪姫を娶っていた。そのような関係もあり、秀吉は幼少時より取り立ててきた秀家にも秀頼を盛り立ててくれることを期待していた。

上杉景勝は、越後の雄・上杉謙信の養子であり、越後の春日山城を拠点としていた。秀吉の治世末期(1598年)には、会津120万石に転封・加増された。

以上、5人が「五大老」である。

石田三成や浅野長政などの五奉行

一方で、秀吉政権ではこの五大老に対するものとして「五奉行」がいた。それが石田三成・浅野長政・前田玄以・増田長盛・長束正家の5人だ。

石田三成は、近江国(滋賀県)の出身。少年期より秀吉に仕え、本能寺の変後は、太閤検地実施の中心となるなど、特に吏務(役人としての職務)で功績を残した。近江国佐和山19万石の大名であった。

石田三成 どうする家康 大河ドラマ
龍潭寺にある石田三成之像(写真: ドラ / PIXTA)

浅野長政は、尾張国の安井重継の子として生まれるが、織田信長に仕える浅野長勝の養子となる。長勝の養女が、秀吉の正妻となる「おね」(北政所)であった。長政は、甲斐国(山梨県)府中城22万石の大名となった。

前田玄以は美濃国(岐阜県)の出身と言われ、織田信長の子・信忠に仕えた。本能寺の変後、京都奉行に任命されるなどした。丹波亀山5万石の大名であった。

増田長盛は、尾張国の出身(近江国との説もあり)、秀吉に仕え、検地奉行として尽力。大和郡山20万石を領した。

長束正家は近江国の出身。丹羽家に仕えていたが、やがて秀吉に召し抱えられ、官僚として活躍。近江水口5万石を拝領していた(後に12万石に加増)。

以上、5人が「五奉行」である。

この五奉行については、これまで一般的に次のような言われ方をしてきた。「五大老の下にあって、重要な政務を処理した5人の奉行」「五大老の下に位した」と。つまり、五大老が五奉行の上位にあり、政権運営を担っていたというのだ。

確かに、先ほど紹介した五大老・五奉行のメンバーの経歴や所領などを見ると、五大老は数十万石〜百万石クラスの大名であり、五奉行は数万石~数十万石の大名。これだけ見たら、五奉行は、五大老より格下に見える。

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