「パリピ孔明」が実写化されるのも当然な時代背景 「劉備か曹操か」世相を映す鏡としての三国志

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この人物評価の是非はさておき、そこには忠義に生きる諸葛亮が、三国志の主人公として語られることへの、心理的な反発心が透けて見える。新しい諸葛亮評価において、その忠義は冷笑的に相対化され、その価値を否定された。

こうして正史を読まねば三国志を語るべきでないという嘲笑と共に、「アンチ諸葛亮」とも言うべき風潮が生まれた。これが大体2000年代以降の雰囲気である。

この時、社会は構造改革の嵐を迎え、終身雇用、年功序列の時代は終わりを迎えようとしていた。容赦ない解雇や派遣切りの嵐の中、組織と個人との精神的つながりは希薄化し、起業による自己実現や、限りなく個人を優先する時代が訪れていた。

王道中の王道を行く「パリピ孔明」

そうした中でも、厳密な三国時代の考証を反映させながら、妻である黄月英と二人三脚で、天下泰平の理想を追求する諸葛亮を描いたマンガ、『孔明のヨメ。』(杜康潤)が誕生し、諸葛亮人気は根強く存在していることを示した。

そこにきて『パリピ孔明』が登場したわけである。そこでは、現代に転移した諸葛亮が、不幸な幼少期を過ごし、能力がありながらも不遇に苦しむヒロインと出会う。そして、彼女が歌手として歌で人々を笑顔にしたい、という夢を語るのを聞いて、そこに天下泰平の理想を重ね、彼女を主君に見立てて忠義を尽くし、その夢を実現すべく智謀をめぐらす。

筋としては誰にでもわかりやすい、現代的な舞台設定を用いる一方、諸葛亮の忠義をテーマにしている点で、『パリピ孔明』はそのタイトルの奇抜さと正反対に、王道中の王道を行っていることがわかる。そして、個性豊かなキャラクターと、テンポよく展開するイベント、そしてふんだんに盛り込まれた三国志ネタを楽しむ中で、そこに一貫して描かれる、諸葛亮のヒロインへの温かい眼差しと、それが故の情け容赦ない怜悧な判断を視る時、観客は自分以外の人生に命を懸ける、崇高な精神を見ることとなる。

これこそが忠義の物語であり、それはとりもなおさず、他者や組織とつながり、互いのために力を尽くして理想を実現したいという、現代社会に潜む願望が、ほのかに映し出されているのである。

もっとも、それがすぐに社会の変化につながるものではないものの、組織がドライな契約関係に限定され、過度な自己実現に疲れた人心が、忠義の物語を求める時、そこには新しい社会の変化が生まれるだろう。そんなことを考えながら『パリピ孔明』を楽しむのも、また一興かもしれない。

大場 一央 中国思想・日本思想研究者、早稲田大学非常勤講師

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おおば かずお / Kazuo Oba

1979年、札幌市生まれ。早稲田大学教育学部教育学科教育学専修卒業。早稲田大学大学院文学研究科東洋哲学専攻博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。現在、早稲田大学、明治大学、国士舘大学などで非常勤講師を務める。専門は王陽明研究を中心とする中国近世思想、水戸学研究を中心とする日本近世思想。著書に『心即理―王陽明前期思想の研究』(汲古書院)、『近代日本の学術と陽明学』(共著、長久出版社)などがある。

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