「パリピ孔明」が実写化されるのも当然な時代背景 「劉備か曹操か」世相を映す鏡としての三国志

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話はずれるが、歴史を題材にした創作物として、三国志に共通するのは『忠臣蔵』である。これはもともと江戸時代の赤穂藩(現・兵庫県)の武士たちが、非業の死を遂げた主君の仇討ちを行った「赤穂事件」(1702)を題材としたものであるが、歌舞伎として「仮名手本忠臣蔵」というタイトルで上演されると、人々の間で大変な人気を博した。

この忠臣蔵もまた、日本人に与えた影響は強く、桜田門外の変(1860)における襲撃計画のモデルになった他、戊辰戦争(1868)では外交儀礼の参考にされたり、あるいは日露戦争(1907~1908)では、ロシアに対する復讐に重ね合わされたりした。

ここでもやはり、忠臣蔵は実用的、あるいはプロパガンダ的に扱われ、歴史を動かしている。第2次世界大戦後、日本を占領したGHQ(連合国軍最高司令部)は、忠臣蔵の影響力を恐れて上演禁止にしたほどである。

昭和世代は、毎年何かしら「忠臣蔵」と銘打った、大型時代劇や映画などのコンテンツを目にしたと思うが、まだ「社畜」という言葉がここまで認知されていなかった高度経済成長時代、終身雇用制、年功序列の中で、サラリーマンたちは組織の一員としての参加意識を持ち、自分が頑張って仲間と協力し、組織のために戦い抜くという「忠義」の物語を生きていた。

年に2本も3本もつくられていた忠臣蔵のコンテンツは、そうしたサラリーマンの物語を力づけていたのである。

これと同じく、三国志もまた、処世術を学ぶビジネス本として読まれた他、吉川英治『三国志』などは、曹操の感性の豊かさや、乱世を生きる野心家ぶりを活写し、前半の主人公にすえる一方で、劉備への忠義に生きる諸葛亮が、一人で国家のすみずみに至るまで管理し、ついに病に斃れる様子を情感たっぷりに描き出し、後半の主人公とした。

これなどは、管理社会の中で力を発揮できず、自分にも機会さえあれば、自由に大きなことをしてみたいという気持ちと、愛着のある組織において、みずからがその運命を背負っているという自負心が同居する、サラリーマンのアンビバレントな心理に寄り添っている。

そうしたことから、何度となく「三国志ブーム」なるものが発生した。日本において三国志は、世相を映す鏡となっていた。

2000年代以降は「アンチ諸葛亮」に

日本でも、1980年代に入ると正史の全訳が普及したことから、『演義』のフィクションを指摘する流れが強まり、それに伴って三国志の人物評価にも、多くの修正がかけられていった。

この成果はめざましく、正史をもととした創作物が生まれた他、いわゆる「三国志オタク」といった人々が登場し、研究者顔負けの知識を持つ人々が、ごく普通の中高生の中に存在するようになる。

三国志は現代のメディアコンテンツとして、不動の地位を確立したわけだが、この場合もまた、その知識の広がりと深まりにもかかわらず、人物評価は多分に現代的、主観的で、「伝統的規範から自由となり、革新的な生き方をする曹操」という再評価や、アニメキャラクターのように、「推し」ている登場人物の知識を語ることが目玉となった。また、『演義』における諸葛亮の人間離れした能力が否定され、その評価が引き下げられることとなる。

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