ヒエラルキー構造は、時代に合いません。人と人とがフラットに付き合って、新しいものを作ったり、ビジネスをやったりするほうがよいということになってきているのです。
強い権力者であるということが、何の役に立つのか、誰もわからなくなっているのですね。
この傾向は、日本において特に顕著です。
戦争中でも、「動かざること山の如し」のリーダーが賞賛されましたが、強大なリーダーシップを発揮しようとすると、みんなが怒り出すので、なるべくそうしないほうがよいという文化的伝統があるのです。
政治学者の片山杜秀さんの著書、『未完のファシズム』に詳しい話ですが、ファシズムが日本では完成しなかったことには理由があります。
江戸幕府では、将軍に権力を集中させると独裁政権化した際に困るということで、老中や年寄を置いて権力を分散させました。明治政府もそれを踏襲し、内閣や議会に権力が集中しないよう、軍の統帥権を独立させたわけです。
強力なリーダーシップを嫌う日本人こそ、弱みを見せながら、「みんなを支えるよ」と言っているほうがいい。この文化は本書の主張にもつながるところがあるでしょう。
SNS時代、リーダーは神格化されない
リーダーは、かつてはある種、神格化されていましたが、SNSの時代になって、それができなくなったという流れもあります。
例えば、2010年代ごろから、ミュージシャンやタレント、映画俳優などがSNSをやるようになり、それまで見えなかった私生活が見えるようになりました。これによって、ポップスターの神話が終わったのです。
マドンナなどの大スターが、SNSを駆使してファンと繋がり、これからのポップスターは神格化ではなく、いかにファンと絆を強くするかだとも言われました。
神格化がされなくなった時代において、どうすれば信頼を得ることができるのか。本書は、そんな大きなテーマとも繋がっているのではないでしょうか。
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