阪急ブレーブスが強くなったのは、1963年、西本幸雄が監督に就任してからだ。1967年に初優勝するとここから3連覇。1968年のドラフトでは、世界の盗塁王福本豊、ミスターサブマリン山田久志、勝負強い加藤秀司が揃って入団。黄金期を創出した。ときはまさに「巨人V9時代」。阪急は日本シリーズで5回も挑戦するが、ことごとく敗れてきた。
西本の後を継いだ上田利治監督時代には1975年からリーグ4連覇、1975年から1977年は3年連続日本一。屈指の強豪となった。
しかし、人気ではときどき思い出したように優勝する阪神タイガースの足元にも及ばなかった。阪神が本拠地兵庫県だけでなく関西を代表する球団になったのに対し、阪急は「阪急沿線のチーム」に甘んじてきたのだ。
関西の私鉄がプロ野球チームを多く持っていた昭和
昭和の時代、関西の私鉄は「プロ野球チームを持つのが当たり前」だった。セ・リーグの阪神タイガース、パ・リーグの阪急ブレーブス、南海ホークス、近鉄バファローズはすべて電鉄系。それどころか神戸と姫路をつなぐ山陽電鉄も2軍だけのプロ野球チーム、山陽クラウンズを持っていた時期がある。
しかし、1988年、南海ホークスはダイエーに買収され、福岡に去る。9月に入って南海の身売りが決まった後の南海-阪急戦では、阪急の応援団長が「南海、さいならー」と大声を上げていたが、その直後に阪急がオリエントリース(翌年からオリックス)への身売りが決まった。電鉄会社系のチームが一挙に2つも消えたのだ。
福岡に移ったホークスとは異なり、オリックス・ブレーブスの本拠地は西宮球場のままだったが、このタイミングで山田久志、福本豊が引退したこともあり、阪急ファンは気持ちが高まらなかった。阪急ブレーブスは「赤と黒」が基調だったが、オリックスは1991年から「ブルーウェーブ」とチーム名を変えたのでもわかるように「青」が基調だった。文字通り「チームカラー」が一変したのだ。
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