1970年11月、親アメリカ国家チリで社会主義政権が誕生する。それも革命ではなく、選挙によって誕生したのだ。アジェンデ政権は社会党、共産党、社会党左派の支持を受けて大統領選に勝ち、社会主義的改革を行い始めた。
チリは鉱山業と農業が輸出を支え、海外の西側資本が大量に投資されている国であった。アジェンデはそこにメスを入れた。農地改革と鉱山の国有化を行ったのである。海外資本、とりわけダウやデュポン、ITTなどのアメリカ資本がそれを見逃すわけはなかった。
議会で選ばれた社会主義政権が国有化政策などの社会主義政策を実行できるのかどうか、これは当時大きな議論を巻き起こした問題だった。ゲリラ闘争や正規軍を味方につけた革命が一般的であった時代に、議会制民主主義の中で、政権を掌握し、社会主義を実現しようというのである。
当時、1968年のフランスの5月革命をはじめ世界を覆っていた市民運動の流れの中で、アジェンデ政権が新しい社会主義への選択肢として、世界中の左翼に熱狂をもって向かい入れられたことは当然であった。
後にフランスの大統領となるフランソワ・ミッテラン(1916~1996年、大統領在任1981~1995年)も1971年11月にチリを訪問しているが、議会の中で社会主義を模索していた世界の左翼政党のアジェンデ詣でが始まる。
フィデル・カストロの予言
そのような中、1971年11月にキューバのフィデル・カストロ国家評議会議長(1926~2016年)がチリを訪問した。そしてカストロは、この政権は長く続かないのではないかという予言めいたことを述べた。
この言葉は2年後の9月11日、まさに現実のものとなる。キューバもアルジェリアも、ベトナムも国軍のみならず民兵組織によって長い闘いの後に革命を実現した。それが選挙による政権交代だけで変わりうるのか、誰もが疑問に思ったことである。
チリは典型的なラテンアメリカの国である。つまり、モンロー宣言(1823年)以後のアメリカのパックス・アメリカーナの一環の中に深く組み込まれ、アメリカ合衆国に利するように利用される国である。
ナポレオン戦争の最中の1810年に独立を達成して以後(ラテンアメリカの解放者、シモン・ボリバールの活躍で多くの地域がこの頃独立する)、独立すれども外国資本に牛耳られ、工業発展を抑えられ、原料供出国として位置づけられてきた。それは、欧州資本は土地や鉱山を所有し、その利益を維持することに奔走したからである。
アメリカにとって、キューバ革命で起こった社会主義化のドミノ現象をこれ以上認めることはできない。そうなると、カストロの予言通り、早晩軍事クーデターが起こるに決まっていたともいえよう。
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