ドラマから始まった台湾#MeToo運動の奥深さ ジェンダー平等先進国台湾でも問題は根深い

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筆者がよく知る台湾文化圏でも、少なくともここ10年の間、性暴力に関するさまざまな告発や事件は起こってきた。例えば、2人の映画監督がスタッフへのレイプで実刑判決を受けた。

文学関係では「国語教師から受けたレイプとその後の歪んだ恋愛関係」を実話であると告白して描いた小説『房思琪の初恋の楽園』(林奕含・著/2017年, 日本版は泉京鹿・訳/白水社/2019)の作者が刊行2カ月後に自殺した。

これは社会問題となり、法整備にもつながったものの、それぞれの事件が次の告発に引火することはなかった。それでは、なぜ今回は大きな連帯 #MeTooへとつながったのだろうか。

1人ではないというエンパワメント

答えの1つは、ジェンダーに対する社会的な成熟を、ドラマが可視化したことだと思う。

エンターテイメントは、その国の社会状況を反映する。近年の台湾映画やドラマでジェンダー問題を扱ったコンテンツが増加するなか、「選挙の人々」ほど具体的に声を上げた性被害者に寄り添ったものはなく、完成度も高かった。それは、ジェンダー意識に関する社会の成熟度や関心を目に見える形で示してくれた。

もう1つは、声を上げた人に対する否定的な意見や声があまり聞かれなかったことだ。

台湾の#MeToo運動では台湾で使用率の高いフェイスブックが精力的に活用されているが、その投稿が拡散されるにあたり当事者への批判的な声がほとんど見られず「あなたの勇気に敬意を表する」「声を上げてくれてありがとう」というような、当事者をいたわる言葉であふれていた。

批判的な声とはつまり「された方が悪い」「どっちもどっち」的ないわゆるセカンドレイプ、2次加害に相当するコメントのことだ。

もちろん、ネガティブな書き込みはゼロではないし、目につかないところで非難の声もあったかもしれないが、公共のSNSという場においては、そうしたネガティブなコメントを許さない空気が満ちていた。

そこにあったのは、男だから女だからという次元ではなく「同じ人間として、声を上げた人を守ろう」という気持ち、さらに個人の自主権と自分の身体の自己決定を重要視する「身体自主権」といった人権意識の定着だ。

それによって起こった台湾の#MeToo運動は、「私も傷ついた」と告発し、自分の過去の痛みに向き合い傷を癒す機会を誰もが得た、そんなステージに台湾社会が到達した証であるかもしれない。

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