「家康が豊臣家の家臣に」秀吉が抱えていた劣等感 家康の行動で、従わなかった家臣達も心変わり

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同書(『徳川実紀』)には、もう1つ有名な逸話が記載されている。家康が秀吉に「秀吉様の陣羽織を頂戴したい」と言上したという話である。秀吉がその理由を問うと「殿下(秀吉)に二度と物の具(武具)を着用させない」(戦があった時は、この家康が敵を征伐する)との家康の返答があり、秀吉がたいそう喜んで陣羽織を家康に与えたのだ。

この逸話は、家康が急に「陣羽織を頂戴したい」と申し出たかのように思われているが、これには前段階がある。秀長と浅野長政が、家康に「殿下に陣羽織を所望されては。二度と殿下に鎧を着けさせないと申し上げれば、殿下もどれほど喜ばれるであろうか」と前もってアドバイスしているのである。

秀吉の弟にまつわる不穏な話も

それはさておき『三河物語』には、秀吉の弟・秀長にまつわる不穏な話が記されている。同書によると、秀吉は家康をやはり危険だと感じ、毒殺しようとしたという。

家康に毒を飲まそうとして、振る舞われた料理の中に毒を入れた。家康は食事の際、上座にいたが、秀長に遠慮し、下座に回った。家康が飲むはずだった毒を、秀長が飲むことになり、秀長は死んだという物騒な話が記されているのだ。

だが、この話は噂話程度であり、『三河物語』の筆者である大久保忠教が書き記したにすぎないだろう。秀長が死んだのは天正19年(1591)のことだ。家康の上洛時は、天正14年(1586)。5年の歳月が流れている。家康を毒殺しようとするほどの毒なら、すぐに亡くなるはずだ。

秀長の死は毒とは無関係だろうし、秀吉が家康を毒殺しようとしたというのも根拠がなく、現実的ではないだろう。家康を殺せば、大政所(秀吉母)や、最悪の場合、朝日姫まで三河武士に殺されてしまう可能性があるからだ。

さて、家康は11月11日に岡崎城に帰還した。家臣たちは、家康の無事の帰国を喜び「めでたい」と喜び合ったという(『三河物語』)。その翌日には、井伊直政に命じて、大政所を送り返させている。家康が無事に帰国した今、大政所の人質としての役割は終わったのである。家康は秀吉に臣従した。ここに「豊臣家臣 徳川家康」としての活動が始まる。家康の新たな人生のスタートと言えよう。

濱田 浩一郎 歴史学者、作家、評論家

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はまだ こういちろう / Koichiro Hamada

1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『あの名将たちの狂気の謎』(KADOKAWA)、『北条義時』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)など著書多数

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