「家康が豊臣家の家臣に」秀吉が抱えていた劣等感 家康の行動で、従わなかった家臣達も心変わり

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この場面は大河ドラマ、時代劇でよく描かれるが、創作ではないかと思っている読者もいるかもしれない。

しかし、家康の家臣・松平家忠の日記『家忠日記』には、秀吉が家康の宿所を訪れたことが記されているのだ。秀吉は家康の手をとり、奥の座敷に案内、自らの想いを述べ、交流を深める。秀吉はよく「人たらし」などと評されるが「家康の手をとり」というところにも、その性格が表れているように感じる。

その夜は酒宴となった。秀吉が家康にまず酒をつぐ。そして次に家康が酒をつぎ、秀吉に勧めた。家康の宿所を秀吉が訪れたことは『徳川実紀』にも記されている。秀吉は久々の家康との対面に喜んだという。そして、秀吉は家康の耳に口を寄せ、次のように囁いたと言われる。

「家康殿もご存じのように、今、私は位人臣を極め、勢威、四海を席巻している。が、もともとは松下氏の草履取りで奴僕であった。信長様に取立てられ、武士の交わりを得た身なので、天下の諸侯は私に畏服するように見えて、実は心より信服しておらん。今、家臣となっている者も、元来は同僚、私を実の主君とは思っていない。近日、私と公に対面するときは、そのことをよく弁えてほしい。この秀吉に天下を取らせるも、失わせるも、家康殿のお心一つ」と。

家康は秀吉の頼みを受けて「すでに、御妹君(朝日姫)を頂戴し、またこのように上洛している以上、秀吉様の立場が悪くなるようには振る舞いません」と答えた。

家康の言葉を聞き、喜んだ秀吉

秀吉はその言葉を聞いて、大いに喜んだという。ここの箇所は、まさに会談を見てきたような描き方だが、両者が本当にこのようなやり取りをしたかまではわからない。

翌日、家康は大坂城に向かった。秀吉に臣従の礼をとり、家康から秀吉へは、馬十疋、金子百枚、梨地の太刀が献上された。

一方、秀吉からは白雲壺、正宗の脇差、唐の羽織が家康に与えられた。『徳川実紀』には、大坂城での対面の際、家康が秀吉に、とても敬服し額ずいたので、それを見た諸大名たちは「徳川殿であっても、こうなのじゃ。われわれがどうして秀吉を軽侮できよう」と、秀吉を敬うようになったという。

秀吉は喜び「その昔、越前の金ヶ崎で私は討死するはずであったが、家康殿のお情けにより虎口を逃れ(非常に危険な状態から、なんとか逃げ出し)、今のこの立場となった。その御恩、忘れることができようか」と家康に感謝の意を示した。

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