台湾出身の元文部官僚が語る「中華」と「中国」 戦前の台湾に生まれて戦後帰国した光田明正氏の体験

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教室での用語は日本語から中国語の世界に変わったが、同級生らとは教師の目を盗んで日本語で会話していた。後にこの時の実体験に基づく言語の接触は、国の留学政策を取りまとめる仕事で大いに役立つようになる。光田さんは著書で次のように記している。

「私は、英語、ドイツ語、フランス語を学んでいる。カナダに留学し、パリに3年住んだことがある。他方、私は生まれ故郷、台湾の通常の福建語(閩南語)は、17歳まで生活用語として用いていると同時に、北京語も台北での中学・高校を通して学習用語、学校での通常会話用語として用いてきた経験がある。この経験を通してみると、北京語と閩南語の距離は、英独の間よりはるかに大きく、英仏の距離にも匹敵するものと感じられる」(『中華の発想と日本人』講談社、1993年)

 

1947年2月28日に発生した「2・28事件」(大陸から来た人に対する台湾人虐殺事件)に代表される、戦後中国大陸から渡ってきた外省人と呼ばれる中国人の台湾人へのさまざまな迫害が起きたため、日本人と認知して日々を過ごしてきた光田さん一家は、日本へ渡ることを考える。

しかし、国民党政権下の台湾でパスポートを取ることは容易ではない。親戚や友人らのさまざまな伝手を頼って何とかパスポートを入手すると、そのまま日本大使館でビザを取得。一家はすぐに飛行機で日本に向かった。

すぐに日本国籍に変えられなかった

1953年、当時17歳の光田さんは、日本に到着したらすぐに日本国籍に戻れると思っていたという。しかし、戦後の日本は彼らを日本人とは見なさず、「5年以上」居住しないと国籍取得の申請ができなかった。そもそも国籍は勝手に中華民国国籍に変えられたのにもかかわらず、だ。

光田明正さん(写真・高橋正成)

戦後の価値観の大転換で、自分たちはいつの間にか日本人ではなく「外国人」になっていた。今でも光田さんは理解に苦しむ変化だったという。そのような中、私立の國學院大学久我山高校がなんら分け隔てなく受けいれてくれたことは大きな喜びだった。

その後東京大学に入学し、卒業間際の1959年に一家の国籍取得が認められた。翌年、文部省に入省。心に決めたのは、人を育て、東洋の伝統的価値観である儒教などの学問を中心とした人材育成を実践することだった。さまざまな文化や言葉に接していたからこそやり遂げたい仕事だった。

光田さんの考え方の中でとくに注目したいのは、文明圏の人々としての「中国人」、あるいは「中華」という考えと、国民国家あるいはその人々の「国民」を指す「中国」や「中国人」は明確に違うという点だ。

それは、光田さんの先祖が中国大陸出身ではあるが、自身や家庭が台湾にあったことで、よりはっきりと区別できる状況にあったことが考えられる。つまり住民の意思をまったく顧みずになされたアメリカのルーズベルト大統領らの「カイロ宣言」で、台湾の中国帰属が一方的に宣言されたことや、今日の中国政府が強硬に主張する「台湾は中国の不可分の一部」という主張には、実体験による「ノー」を光田さんは突き付けているのだ。

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