「ずっと面白い」ジュディ・オングが魅せる輝き 「魅せられて」で知られる歌手のインタビュー
台湾の情報が日本に届くようになった
――台湾で版画の個展を開かれるのは久しぶりです。
コロナ禍では、日台双方で隔離措置もあり台湾へ帰ってこられませんでした。ただ、97歳の母は台湾にいる兄の元にいて、リモートで顔を見ていました。すごい時代になったものですね。
インターネットの進歩もあり、日本における台湾への見方にも大きな変化を感じています。特に東日本大震災以降はずいぶん変わりました。当時の天皇陛下が台湾の駐日代表(大使相当)にお礼を言われたぐらいです。
かつては日台のメディアが「一方通行」の時代でした。日本の出来事は台湾に伝わりますが、台湾の情報は日本に入りませんでした。16歳の時に、私は野球選手の王貞治さん、囲碁棋士の林海峯さんと3人合わせて「華僑三宝」という名誉なネーミングをもらいました。ただ、そのような台湾の情報も日本には届きませんでした。
ネットが普及していき、情報がすぐに国境を超える時代になりました。「台湾でも活躍しているジュディ・オング」を日本で認識してもらえるようになったのはそれからです。最近ではネットフリックスなどの配信サービスで台湾の作品が観られるようになりました。メディアの進化が、日台関係に多大な影響を与えていると感じます。
――1972年に中華圏のアカデミー賞とされる金馬奨で最優秀主演女優賞を受賞しました。ちょうど日台断交の時でしたが、今後は日台合作映画なども盛んになりそうです。
むしろ日台英や日台米の合作が盛んになるのではないでしょうか。日本語圏、中国語圏、英語圏と、多様な言語マーケットをまたがる創作がどんどん盛りあがる気がします。これから更に、さまざまな役柄のお芝居に挑戦したいと思っています。
――9歳から「劇団ひまわり」に入り、11歳でデビュー、芸能生活60年以上ですが、「ああ、もう疲れたな」といったことはありませんか。
それがないのです。ずっと面白くて仕方がない。表現することが子どもの頃から好きでした。来客があれば、まず兄が障子を閉めて「ウィリアム・テル」の音楽を流し、ゆっくりと障子を開け、懐中電灯でスポットライトを当ててくれました。そして登場するのはティンカーベルのチュチュを着たバレリーナの私。とにかく「エンターテイン」することが大好きです。
――ジュディさんの変わらない輝きの秘訣ですか?
最近は「プラトニックラブ」ですね(笑)。人生でさまざまな経験をして、プラトニックラブにたどりつきました。終わりなくずっと好きでいられるのがいいです。いつまでも尊重し合い、ドキドキできる大切さを今の年齢になってしみじみ感じます。その人に会うかもしれないと思うと、疲れていても身だしなみを整え、朝からしっかりおしゃれして出かけます。おかげでとても元気でいられるし、生活にハリが出ます。
――2020年に亡くなられた作曲家の筒美京平さんが作った曲のひとつがジュディさんの「魅せられて」です。筒美さんはどのような人物でしたか。
普段はあまりレコーディングに顔を出さなかったそうですが、私はとてもラッキーでどのレコーディングにも筒美さんがいらしてくださいました。
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