「ずっと面白い」ジュディ・オングが魅せる輝き 「魅せられて」で知られる歌手のインタビュー

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上から下まで白いスーツを着てお洒落で、上海ではカメラ倶楽部なども作って楽しんでいたようです。その後、民族のためにひと肌脱ごうと台湾を代表して辛亥革命に参加しました。

父はそのとき四川の大学にいて、戦争が始まって呼び戻されました。父が戻る途中で祖父は亡くなりましたが(※翁俊明は医師であり、辛亥革命で台湾代表として立ち上がったことで知られる)、台湾に帰って中国広播公司(BCC)ラジオを起ち上げました。

終戦後は英語と(中国語の)北京官話(マンダリン)ができることからGHQに呼ばれ、日本へ派遣されました。アメリカ軍で仕事し、1年後に私たち家族を日本へ呼び寄せます。

台湾に初めてテレビ中継車を導入した父

父は、祖父の教育により漢詩を作るなど伝統的な顔がある一方で、常に人より一歩未来を見ている人でした。台湾にテレビメディア(台湾CTV)もつくり、技術提供していたNHKが白黒からカラーに移行することもあり、白黒テレビの中継車をNHKから譲り受けて台湾に持ち込み、連続ドラマを作りました。

台湾で初めてのテレビ中継車でした。それでできたのが連続ドラマ「晶晶(ジンジン)」ですが、正午の放送時刻には誰も街を歩いていないというぐらい大ヒットしました。新しい情報をキャッチしては常にアップデートを重ね、デジタルや3Dマッピングにもいち早く目をつけていました。

――翁家の家訓は何でしょうか。

「悦己悦人(人を喜ばせることが、自分の喜びである)」でしょうか。医者の家なので患者の病気がよくなって喜んでもらうのが医者の喜びです。私の場合は歌やお芝居で皆さんに喜んでもらうことです。それは、私たちファミリーに共通していることでもあります。

兄は、台中の高鐵(新幹線)や高雄流行音楽センター海音館(※スペインの建築士との共同プロジェクト)をはじめ高雄湾のアーバンデザインも手掛けた建築家で、小さいころから良き協力者ですね。2024年1月には台北の新光三越デパートで、兄妹展をする予定です。

ジュディ・オングさん(右)と建築家として知られる兄のマークさん(写真:SHOJI MOROZUMI、HEEMORY提供)

――台湾と日本の間で活躍してきたジュディさんから見える、それぞれの好きなところや嫌いなところを教えてください。

私は嫌いがないのです。よくインタビューで「苦労話を聞かせてください」と聞かれますが話せない。嫌なことをだいたい忘れるのです。

日本のいいところであり、台湾のいいところでもあるのは「時間」です。日本は1時と指定すれば1時にきっちり集まります。でも台湾は少し緩やかです。大体1時ぐらいで、前後しても誰も気にしない。

これはその違いをきちんと意識すれば大丈夫。親には「台湾に帰ってくるなら、台湾の気候に合わせて気持ちも楽に、でも日本では日本の時間に合わせてね」としっかり言い聞かせられて育ちました。

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