甲斐と同じく、信長の死によって領主のいない空白地帯となったのが、信濃と上野である。ともに「本能寺の変」を契機に、状況は一変している。
信長から信濃国を与えられていた森長可は領地を捨てて、美濃へと敗走。滝川一益にいたっては、対北条氏の最前線として上野国を任されていたため、すぐさま脅威に晒されることとなった。一益は、攻め込んできた北条軍を迎え撃とうとするが、敗走を重ねて完全に駆逐されてしまっている。
そんな東国の混乱ぶりについては、光秀を討った羽柴秀吉も気になっていた。だが、自身は織田家の家督相続問題に追われており、それどころではない。7月7日付の家康に宛てた書状で、次のような趣旨のことを述べている。
「信濃・甲斐・上野を敵方に渡さないでほしい」
家康はその書状を受けて2日後に甲斐へと入ったことになる。そして、甲斐・信濃一帯で割拠する国衆たちを味方につけるべく、徳川・北条・上杉が動き出すことになる。
しかし、上杉景勝は南下して信濃川中島を押さえるものの、家中に内乱が生じたことで、それ以上は進めなくなった。
一方、甲斐を押さえた家康はといえば、信濃の諏訪氏を味方につけるべく、重臣の酒井忠次が調略に動いている。だが、忠次は高島城の諏訪頼忠を説得できず、調略に失敗。足止めを食らうこととなった。
北条の大軍を8000で迎え撃つ
そんななか、上野国へと進出して勢いに乗る北条氏直は、碓氷(うすい)峠を越えて、信濃国へと侵攻している。川中島で対峙する上杉軍と停戦したのち、甲斐を狙うべく、さらに南下。若神子(わかみこ)城へと入っていく。
対する家康は8000の軍勢で新府城に本陣をしき、両者はにらみ合うかたちとなる。家康は北条軍と全面対決することとなった。
このときに、北条の軍勢は2万とも、4万ともいわれている。兵力としては圧倒的に劣勢のなかで、家康は堅い守りで、北条の攻撃をしのいでいる。
戦況を打開すべく氏直の父である氏政が 、弟の氏忠に1万の兵を与えている。そして新府にいる家康の背後をつくことで、南北から挟み撃ちにしようとした。
ところが、徳川勢の抵抗がないため、北条の兵たちは油断して、あちこちで略奪を始めてしまう。
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