北条の「圧倒的な大軍」が家康に戦意喪失の驚き 旧武田領巡り、上杉・北条・徳川で三つ巴の争い

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案の定、旧武田領に手を伸ばしてきたのが、越後の上杉景勝と、相模の北条氏直である。家康と合わせて、三つ巴の争いが繰り広げられ、「天正壬午の乱」と呼ばれる騒乱が始まることとなった。

動乱の引き金の1つとなったのが、甲斐で起きた旧武田家家臣や土豪、地侍による一揆である。

甲斐国のうち河内領についてはもともと穴山梅雪の領土だったが、梅雪は落ち武者狩りで、命を落としている。空白地帯を作らぬように、家康は武田旧臣で徳川方についた岡部正綱をすぐに派遣していた。

問題は、それ以外の甲斐国の領地である。『三河物語』によると、家康は一揆を鎮圧すべく、本多忠政を派遣。統治していた織田家の家臣、河尻秀隆を助けようとした。

ところが、河尻はこの援軍を「自分たちを討とうとしているのではないか」と警戒。忠政にご馳走をふるまい、油断させながら、寝ているところを長刀で突き殺してしまう。

織田家家臣は疑心暗鬼に

状況的には、織田家の家臣が、もはや誰も信じられなくなっていたとしても無理はない。一説によると、一揆を理由に家康は河尻を甲斐から引き離そうとしていた、ともいわれている。結局、河尻は一揆勢に殺されてしまう。

事態を受けて、家康は大須賀康高(大須賀五郎左衛門尉)や岡部正綱ら武田旧臣の者たちを派遣。甲斐の一揆を鎮圧させようと働きかけている。

しかし、2人が送り込まれてからも、しばらく一揆にてこずらされることになる。そんななか、援軍として大久保忠世(大久保七郎右衛門)が「婆口(うばぐち)」、現在の甲府市右左口に到着すると、大須賀はずいぶんと心強かったらしい。『三河物語』には、大須賀のセリフとして、こう書かれている。

「なに、大久保七郎右衛門がもう着いたか。もう大船に乗ったようなものだ」

 だが、『三河物語』の作者は、大久保忠世の弟にあたる大久保彦左衛門(忠教)であり、兄の活躍を強調する描写が多い。実際はそれほどすんなりといったわけではなかった。

天正10(1582)年7月3日には、家康自身が浜松から出陣。8000の軍勢を率いて、9日に甲斐へと入っている。

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