現に、それまで家康と行動をともにしていた穴山梅雪は、運命の別れ道で選択を誤り、命を落としている。家康から「これまで従ってきたのだから、帰りも連れていこう」(『徳川実紀』)と言われたにもかかわらず、信じ切れずに別行動をした結果、「物取共が打ち殺す」(『三河物語』)、つまり、落ち武者たちに殺されてしまった。家康となれば、その首をとった見返りも大きい。逃げおおせるのは並大抵のことではない。
だからこそ、窮地からの打開策をリーダーである自分が考えて提案するのではなく、自ら切腹を持ち出してまで、それぞれの家臣たちに必死に考えてもらう必要があったのではないか。
というのも、約10年前に武田信玄と戦った「三方ヶ原合戦」(1573年)では、家康は痛い目に遭っている。重臣たちが「敵の人数は3万余りあり、信玄は熟練の武者です。ひるがえってわが軍はたったの8000にすぎません」と、止めたにもかかわらず、家康は追撃を決意。次のように檄を飛ばして、家臣たちを奮い立たせようとした(『三河物語』)。
「敵は多勢無勢で結果が決まるとは限らない。天運のままだ」
しかし、その結果、惨敗して窮地に追い込まれている。さらに10年さかのぼった1563年には、自分が断行した政策によって「三河一向一揆」が引き起こされている。家臣たちが内部分裂してしまうという苦い経験もした。
窮地に陥ったときほど、リーダーは冷静になることが大切。迷いを振り切るように、一人で決めるのは得策ではない。忍耐強く、ボトムアップで意見を募り、自身は「命令者」ではなく「実行者」になるべし、と家康は腹を決めたのだろう。
家康の普段の行いもピンチの打開に
長谷川の案内によって、伊賀国の険しい山道を越えて、三河へと向かうことになった家康一行。落ち武者対策には、伊賀出身の家臣、服部半蔵こと服部正成が、見事な働きを見せている。動員した忍びは200人にもおよび、家康を守らせた。
伊賀越えのルートには諸説があるが、本能寺の変から2日後の6月4日には、伊勢国白子から船に乗り、三河国に辿り着くことに成功した。『三河物語』には次のようにある。
「伊賀を出られ白子より舟に乗られ、大野へ上陸したと聞き、皆が迎えに参り岡崎までお伴した」
思えば、見事なリレーである。家康の自決を止めるために、本多忠勝が「明智を討つべし」と口火を切ると、重臣の酒井忠次や石川数正がすぐさま賛意を示して家臣団をまとめたうえで、長谷川秀一が具体的な打開策を提示して、さらに服部正成が実現するためのフォローを行う――。
それぞれができることをやった結果、「伊賀越え」という難事業をクリアすることとなった。
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