一方で、当の家康の働きぶりも無視することはできない。『三河物語』によると、家康がかつて三河へと逃げ込んだ伊賀者たちを助けたばかりか、扶持まで与えたことで、現地で感謝されていたらしい。前年に伊賀攻めを行った信長が、領民をせん滅させようとしたのとは対極的な態度で、家康は領民の心をつかんでいたのである。
大ピンチこそ優秀な部下たちの自発性を引き出し、自身は普段から各方面に恩を売って、いざというときに助けてもらえるような環境にしておく。そんな家康のバックアップ型リーダシップが「伊賀越え」では発揮されることとなった。
武田信玄と同じく人材を大切にした
そのやり方の見本となったのは、やはり家臣の言葉によく耳に傾けたという、甲斐の武田信玄ではなかったか。事前工作で味方を増やしておくのも「戦う前に勝利する」という信玄らしいやり方といえよう。
家康は父も祖父も、家臣に討たれている。信玄は父を自らが追放した格好になったが、実際は家臣たちに担がれてのクーデータだった。
家臣は怖い。だからこそ頭を押さえつけるべし、と統率を重視した信長が、家臣の光秀に討たれた今、家康は信玄と同じく家臣たちを生かさなければと、なおさら確信したことだろう。
しかしながら、どれだけ自分に付き従う者をケアしても、去るときは去ってしまうのだから、無常である。リーダーがつい人間不信に陥りやすいところだ。
重臣の石川数正が家康のもとを離れて、敵対する豊臣秀吉のもとへと出奔するのは、1585年11月。伊賀越えで命運をともにしてから、約3年半後の出来事であった。
【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
大石学、小宮山敏和、野口朋隆、佐藤宏之編『家康公伝〈1〉~〈5〉現代語訳徳川実紀』(吉川弘文館)
宇野鎭夫訳『松平氏由緒書 : 松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
平野明夫『三河 松平一族』(新人物往来社)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館)
笠谷和比古『徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助くべし』 (ミネルヴァ書房)
平山優『新説 家康と三方原合戦』 (NHK出版新書)
河合敦『徳川家康と9つの危機』 (PHP新書)
二木謙一『徳川家康』(ちくま新書)
日本史史料研究会監修、平野明夫編『家康研究の最前線』(歴史新書y)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)
太田牛一、中川太古訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)
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