家康が信長の仇討たず「伊賀越え」選んだ複雑事情 家臣たちの意見は?なぜ逃避行を怖がったのか
今年の大河ドラマ『どうする家康』は、徳川家康が主人公。主役を松本潤さんが務めている。今回は家康の危機の1つ、伊賀越えの背景を分析する。
天正10年(1582)6月2日の朝、徳川家康は、京都に戻るため、堺を出立した。
ここに至るまでを振り返ると、家康が穴山梅雪(武田旧臣)と安土に到着したのは、同年5月15日のことであった。武田氏を討伐し、信長から駿河国を拝領した御礼のためである。
到着してからは、安土城下での舞や能の観覧、贅を尽くした接待、食事の際は信長自らお膳を据えるなどのもてなしの数々。家康も満足したことだろう。
堺で家康は衝撃的な情報を耳にする
5月21日、家康は上洛するが、それも信長の「京都・大坂・奈良・堺をゆっくり見物されるがよい」との言葉によるものであった。案内人として長谷川竹(織田家臣)が同行し、大坂では、織田信澄と丹羽長秀が家康をもてなすことになっていた。
家康らが堺に入ったのは、5月29日。6月1日には、茶会が開催され、津田宗及(堺の商人)や松井友閑(堺代官)の接待があった。そして、翌日(2日)、家康は京都に戻るべく堺を出立。
するとそこに、驚くべき情報がもたらされたのであった。京都・本能寺にて、織田信長が家臣・明智光秀に襲撃され自害した「本能寺の変」(6月2日)に関する一報である。
この知らせを誰が伝えたかというと、京都の豪商・茶屋清延ではないかと言われている。
一説では「家康は本能寺の変に関する第一報を、6月2日朝、堺の宿泊先で聞いたのだろう」とし、それは茶屋清延の使者がもたらしたものだとする。そして「確信的な情報を得た茶屋清延は、自ら第二報を伝えるべく堺に向っていた」とされる。
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