家康が信長の仇討たず「伊賀越え」選んだ複雑事情 家臣たちの意見は?なぜ逃避行を怖がったのか
『徳川実紀』には、茶屋清延が土豪に金を与え、道案内させたこと、一揆の者どもが道を遮ったときは、本多忠勝が力を尽くして、これを追い払ったことなどが書かれている。
また、同書にも『三河物語』と同じく、家康が伊賀の者に温かく接していたことで、同地の人が助けてくれたことが記載されている。
家康も殺されていた可能性がある
こうして、堺から三河へと無事に帰ることができた家康だが、もし堺ではなく京都にいたならば、光秀は軍勢を差し向け、家康をも殺していただろう。
それを思うと、本能寺の変の際、堺にいたということは、家康の運の強さを示すものかもしれない。
家康は、本気で信長の弔い合戦をするつもりであった。家康は尾張清洲城に逃れていた三法師(信長の孫、後の織田秀信)を擁し、光秀を討つ算段だったようだ。
6月14日、尾張国鳴海へ出陣した家康。数日後、そこにまた驚くべき知らせが家康のもとに、届けられることになる。
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