家康が信長の仇討たず「伊賀越え」選んだ複雑事情 家臣たちの意見は?なぜ逃避行を怖がったのか

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しかし、京都から堺までの距離は、約60キロメートル。距離が離れており、6月2日未明の本能寺の変の第一報が、その日の朝に堺に届くことはないだろう。よって、茶屋からの第二報というものはなく、茶屋清延自身による第一報によって、家康は本能寺の変を知ったはずだ。

また家康近臣の本多忠勝が、京都に先に向かっている道中に、茶屋清延と会って事件を知り、堺に引き返して、家康に本能寺の変を伝えたという説もある。

『徳川実紀』によると、忠勝が引き返してきた様子に家康はただならぬものを感じ、お供の者を遠ざけ、井伊直政・榊原康政・酒井忠次・石川数正・大久保忠隣などだけを側に呼び、茶屋の報告を聞いたという。

家康が一報を聞いた時の言動は『三河物語』には記されていないが『徳川実紀』には次のように書かれている。

「今、手元にもう少し軍兵がいたならば、光秀を討ち、織田殿(信長)の仇をとりたい。しかし、現状は無勢。それは叶うまい。中途半端なことをして恥をかくよりは、急ぎ都に上り、知恩院にでも入り、腹を切り、織田殿に殉じようではないか」と。

家康の意向に異議を唱える家臣たち

しかしその家康の意向に本多忠勝が異を唱える。

本多忠勝像(写真: 2Y/ PIXTA)

長年の信義を守り、信長と死を共にしようという考えは義に叶うもの。とは言え、信長の恩に真に報いようと思うのであれば、まずは本国に帰り、軍勢を率いて、光秀を討つことこそが、大切なのでは、と忠勝は主張したのだ。酒井や石川といった近臣たちもそれに納得、賛同したが、家康はなおも粘る。

「本国に帰り、軍勢を率い、光秀を討つことはもとより望むところ。しかし、本国に帰るには、知らぬ野山を彷徨うことになろう。その途上には、山賊や一揆の者どもがここかしこにおろう。そのような者に討たれるよりは、都にて腹切るべし」というのが家康の考えだった。

そのとき、案内役を担った長谷川竹が、「帰国のことはそれがしにお任せください」と申し出たので、さすがの家康も近臣の再度の諌めもあり、領国に帰る決意をした。

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