家康が信長の仇討たず「伊賀越え」選んだ複雑事情 家臣たちの意見は?なぜ逃避行を怖がったのか

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家康は同行していた穴山梅雪にも「一緒に帰国しましょう」と誘うが『徳川実紀』によると、梅雪は内心「家康を疑っており」、共に帰ることは拒否。別の道を歩むことになる。『三河物語』にも「梅雪は家康を疑って」と書いてある。

元々梅雪は武田に仕える家臣だったが、信長の甲州征伐が始まると、信長に内応。以降は織田の国衆となっていた。梅雪が家康の何を疑っていたのかはわからないが、ともかく、家康と別行動をとった。

そして哀れにも、落武者狩りにあい、宇治田原(京都府)で討たれてしまった。『三河物語』ではその死を「家康について引きあげていたなら、何事もなかったものを、ご同道されなかったことが不運である」と悼んだ。

この落武者狩りこそ、家康が本国に帰ることを渋っていた理由の1つである。敗残の将士を討ち取り、鎧・武器・馬などを奪う、あるいは、高名な武将ならばその首を(今回の場合は)明智方に届け、恩賞にあずかろうとする者たちもいる。

本国に帰るにしても、そうした無頼の徒をうまく避けなければ落命してしまうだろう。家康のこの逃避行(「伊賀越え」)が「神君三大危機」の1つに数えられているのはそのためである。

過去の行動が家康を救う

家康は6月2日中には、山城国宇治田原に着く。その日は、山口光広の館に宿泊。堺からの距離は、約52キロ。翌日(3日)には、南近江路を通り、信楽(滋賀県甲賀市)に到着。そして、多羅尾光俊の小川城に一泊。この日の移動距離は、約24キロだった。

4日には伊賀・伊勢路を通り、伊勢国白子(三重県鈴鹿市)に出る。この日は、68キロ以上、移動したという。そこから船で三河国大浜(碧南市)に至り、5日に岡崎城に帰還した。

『三河物語』にはこの「伊賀越え」について、次のように記す。

「家康は伊賀国を通って引き上げた。かつて、信長が伊賀国を攻められた時、伊賀の国の者どもを皆、殺した。他国へ逃げた者も、捕まえ殺した。だが、家康は三河に落ち延びてきた伊賀の人々を1人も殺すことなく、生活の世話をした。伊賀国にあって、その時のことを覚えていた者がいて、御恩返しをしなくてはと思い、家康らをお送りした」と。

家康の過去の温情が、後年自らの身を救ったと言えよう。

次ページまたもや驚きの展開に
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