一時は本当に知恩院に向かい始めた家康一行だったが、先導していた忠勝が足を止める。そして、「徳川四天王」の最年長者である酒井忠次のところに行き、「信長の恩に真に報いようと思うのであれば、まずは本国に帰り、軍勢を率いて光秀を討つ、それこそが大切なのではないですか」と告げている。
すると忠次は「年長の私たちはそこまで思いつかなかった。恥ずかしいことである」と反省。忠勝の意見をすぐさま、家康に伝えたという(『三河物語』)。
しかし、それだけでは、説得しきれなかった。家康はなおも食い下がっている。
「弔い合戦で討ち死にするのと、知恩院での追腹とでは、確かに雲泥の差だ。だがこの供回りだけで三河へ戻るのは難しい。途中で匹夫の矢に当たって死ぬよりは、追腹のほうがまだマシだろう」
家臣たちの気持ちはわかるが……というスタンスで、なおも切腹を主張する家康。頑固な主君に、家臣たちも必死に知恵を絞らざるを得ない状況となった。
キーマンとなった織田家の家臣とは?
「何とかしなければならない」というムードのなか、織田信長の家臣である長谷川秀一が、こんなことを言い出した。秀一は信長から堺見物の案内役を命じられて、家康一行に付いていた人物である。
「敵を一人も手にかけないのは無念です。三河に向かう道筋には、私の知り合いが多くいます。私がご案内いたしましょう」
幼いころから信長のもとに仕えて「竹」と親しく呼ばれていた秀一だけに、このまま引き下がれないという思いが強かったのだろう。すると、酒井忠次だけではなく、やはり古参の石川数正も一緒になって「我が意を得たり」とばかりに、家康にこう畳みかけている(『徳川実紀』)。
「それならば、忠勝の言う事に従い、道案内は長谷川に任せるとよいでしょう」
家臣たちにこうまで言われては、家康も考えを改めざるを得ない。自決をやめて、生き延びる道を模索することになる。
もしかしたら、すべては家康の思惑通りだったのかもしれない。なにしろ、生半可な気持ちでは、打開できない事態である。信長を討った明智勢にも、落ち武者狩りにも見つからずに、三河まで戻らなければならないのだ。
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