オランダ語を学び西洋に負けない国をめざした武士
幕末の武士・政治家。咸臨丸の艦長として渡米。帰国後は坂本龍馬らを門下生に迎え、神戸海軍操練所の建設を進めた。戊辰戦争では薩摩藩との厳しい交渉を切り抜け、江戸城の無血開城を実現した。
現代の日本では生まれや職業が異なる者同士でも問題なく意思疎通ができますが、明治時代に標準語政策が敷かれるまではそれがままならない状態であったことをご存じでしょうか。
身分制度の影響で職業による言語差があったほか、藩ごとに使われる言語が異なっており、藩同士のやりとりには通訳を必要とするほどだったのです。武士のあいだでは共通語として武家言葉も使われていましたが、東国の武士と西国の武士の会話が成り立たず、謡曲を使って会話をするケースも見られたのだとか。
海舟の父親は江戸の下町の旗本でしたが、役職を持っていなかったため、海舟一家は庶民に近い生活を送っていたといいます。そんな海舟が話していた言葉とは「べらんめえ調」のこてこての江戸語だったそうです。
海舟が生きた時代には、江戸語がかなり浸透していました。しかし、それでも医者や学者などの職業を持つ人たちは言葉づかいに保守的であり、京都や大坂で使われる上方語風の言葉を話し、また遊廓へ行けば遊女たちは「ありんす調」の独自の言葉を話したといわれています。現代の日本とは異なり、日本全国に共通する言語というものが、江戸時代には存在しなかったのです。
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