まず敵に見えないように3万の兵を分散させ、この付近に流れる連吾川を堀に見立てて斜面をつくります。そこに三重もの土塁を築き、さらに馬防柵まで設置しました。
この馬防柵は武田騎馬隊を防ぐものとして捉えられていましたが、最近の研究では騎馬隊で突っ込むというような戦法を戦国時代の小さな馬で取ることはあまり考えられないと否定的な意見も出ています。しかし敵の攻撃を防ぐという点では同じことです。
敵をはるかに上回る兵力を持ち、さらには当時の最新兵器である鉄砲を大量に持ち込んでいながら、その戦術は「敵を防ぐ」というものでした。このあたりが信長の傑出した才能です。最悪、武田が兵を引いても「武田が織田との決戦を避けた」と喧伝できるわけで、信長としては実を取れます。
ただ、家康が信玄の挑発にのって三方ヶ原に誘き出されたように、若く、父・信玄を超えたいと考えている勝頼が、この策にはまる可能性は高いと考えたのでしょう。さらに勝頼の諜報網が信玄に比べると弱いことも理解し、兵を13カ所に分散させて総兵数を悟られないよう工夫していました。
重臣たちの提言に聞く耳を持たない勝頼
信長は、自軍の配置が完了しても撤退の動きを見せない武田軍に、自らの作戦がうまくいく手応えを感じたのでしょう。できれば勝頼を誘き出して殲滅したいと考え始めます。このとき武田軍では、山県、馬場、原らの宿老たちが勝頼に撤退を勧めますが、勝頼はこれを却下。やはり勝頼は織田・徳川への一種の侮りがあり、敵兵力の正確な把握を怠った節があります。
しかし信長にも困ったことがありました。
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