関ヶ原の合戦の折には、秀康は上杉の押さえを任されます。このことに秀康は、
「後継者である秀忠より自分が武功をあげることを恐れたものである」
として不満だったようですが、むしろ家康としては万が一、梟雄・伊達政宗が上杉景勝と電撃的に和睦して背後から襲い掛かるような不測の事態を起こさぬよう、器量人である秀康を置いたと考えたほうが自然な気がします。
その秀忠は、関ヶ原の合戦に何日も遅れるという大失態を犯しました。さすがに家康も、このときは秀忠を後継者とするにふさわしいかを悩んだようで、関ヶ原の合戦直後に、どちらが後継者として望ましいかを重臣たちに問うたとされています。
家康の参謀役だった本多正信は秀康を推したようですが、最終的には家康は秀忠をそのまま後継者として据えることに決めました。この背景には、ながらく後継者から外していた秀康を後継者にすると家中の混乱を招くことと、秀康は少なからず豊臣家の色がついていたからだと思われます。ここで秀康が徳川家を継ぐ可能性は消滅しました。
晩年の秀康とお万の方
関ヶ原の合戦後、秀康はその武功を認められて越前68万石を与えられます。
この評価は最大級のものです。家康がいかに秀康を評価していたかがわかりますが、秀康としては、徳川家の後継者になれなかったことはショックのようでした。
秀忠が第2代将軍になった際に伏見城にいた秀康は、当時評判の阿国一座を招き、その歌舞伎を絶賛したあと、
「天下の女が幾千万とあれども、阿国は女の中で天下一と呼ばれている。ひきかえ自分は天下一の男になれなかった。阿国に劣る自分を無念に思う」
と言ったとされています。秀康の心のうちがわかる逸話です。
それでも公的には秀康は分をわきまえており、新将軍の秀忠を立てて忠誠を尽くします。秀忠もまたそんな兄を立てて、ふたりの間には表立った争いはありませんでした。兄弟で跡目を争い軋轢を起こし、家を危うくする話はよくありますが、秀康はそのような愚行を犯さなかったのです。
しかし秀康は、秀忠が第2代将軍の座についてまもなく体調を崩します。
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