梅毒だったと言われていますが、気がついたときにはもはや手遅れだったとか。公務を離れ越前に戻った秀康を手厚く看病したのは、母・お万の方でした。
秀康が亡くなると出家の道へ
秀康の双子の兄弟である永見貞愛も3年前に亡くなっており、お万の方は懸命に看病しますが1607年6月2日、結城秀康は波乱の人生の幕を閉じました。お万の方は、秀康が亡くなると家康の許可を得ずに出家します。
本来、仕えるべき主の生存中に出家するには許可が必要ですが、お万の方にとって家康は、もはや仕えるという感覚ではなかったのでしょう。家康もまた、お万の方の想いを受け入れました。それが、せめてもの家康からの償いだったのではないでしょうか。
こうして長勝院と名乗ったお万の方は、72歳で没するまで秀康の所領である越前北ノ庄で過ごしたのです。
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