お万の方は作左衛門の差配により、無事にふたりの男児を出産します。作左衛門はひとりを死んだことにし、出生の届け出を行いました。そして死んだことになったひとりは、お万の実家である永見家に預け育てさせます。
この子は「永見貞愛」の名で、叔父の永見貞親から神職を譲り受け、神主として一生を終えました。彼もまた家康の実子でしたが、それが正式に認知されることはなく、家康と親子の対面が許されることもありませんでした。
そして実子として届け出られ「於義伊」と名付けられた子も、家康との対面は許されず作左衛門の手元で育てられることに。当時、家康は武田勝頼との対決が目前に控えるなど多忙ではありましたが、実子に対して冷たい仕打ちです。
信康のはからいと秀吉との出会い
於義伊は中途半端な立場で捨て置かれましたが、これを助けたのは正室・築山殿の息子であり、家康の後継者である信康でした。信康は弟の於義伊を哀れみ、家康を説得して親子の対面を果たさせます。
しかし、それでも家康は於義伊を子としては認知しなかったようです。築山殿が相変わらずお万を側室として認めなかったこともありますが、これは家康自身の考えでもあったとか。本多作左衛門が何度か家康に交渉したものの、家康は「そのことについては考えがある」とだけ告げて於義伊の身分を確定させませんでした。母親のお万も同様の扱いです。
このふたりの転機は、家康とのあいだに立ってくれた信康が切腹させられたことで訪れます。正室の築山殿も殺されてしまったため、於義伊とお万はそれぞれ正式に家康の次男、側室としての地位を得ました。
本来なら次男である於義伊が家康の後継者に据えられるはずでしたが、その地位は5つ下の長松、のちの秀忠に定められていたようです。これは長松の生母である西郷局の方がお万よりも身分が高かったことと、なによりも西郷局が家康に愛されていたことにありました。お万は側室として認められたとはいえ、すでに家康とは没交渉でした。
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