家康は、於義伊には一貫して冷淡で、天下統一が目前の豊臣秀吉と対立して小牧・長久手の戦いを行ったあと、和睦の証しに人質として秀吉に送ります。秀吉は於義伊を養子にし「羽柴秀康」と名乗らせました。秀康は14歳で秀吉の九州征伐に同行し初陣を果たします。ここで抜群の武功を上げ、秀康は秀吉を驚かせました。そうして養父であり天下人でもある秀吉に愛されます。
秀吉は秀康を豊臣政権における東の要にしようと考え、関東の名門・結城家を継がせました。ここに「結城秀康」が誕生します。秀康は10万石の大大名に昇進することになりました。
於義伊改め結城秀康の胆力に家康も驚く
このころには秀康の器量が天下に響いていました。
秀康の豪胆さを示すエピソードをいくつかご紹介しましょう。
秀吉の人質だったころの話です。馬術の訓練をしていたときに秀吉の寵臣が秀康と競うように馬を並べてきました。秀康はその者を一刀のもとに斬り捨てます。騒然とするなか秀康は平然と、
「自分の許しなく馬を並べるなど無礼である」
と言い放ちました。
これを聞いた秀吉は、
「わが養子・秀康に無礼を働くのは、わしに無礼を働くのと一緒である」
として秀康をとがめず、逆にその豪胆さに感心したと言われます。
また、伏見で相撲観戦をしていた際に、観客が熱狂して収拾がつかなくなったものの、秀康が立ち上がり睨みつけただけで観客が静まり返りました。その様子を見た実父である家康は、
「秀康の威厳に驚嘆した」
とつぶやいたと言われています。
家康も、成長した秀康の器量を認めざるを得ませんでした。
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