スポーツ心理学的に言えば、チャッターがすべてに影響します。競技にも影響しますし、その人の人生にも影響しますから、自分のチャッターに気付かないということは、それこそ自分自身の潜在的な魅力の宝庫に気づいていないという意味にもなりますから、もったいないな、と思います。
欧米でメンタルトレーニングの講演をする時にはあまり経験しないのですが、日本では「私はチャッターをしたことがありません」と言う人が会場に結構いらしたりします。「あんまり、物事に疑問を持ったりしないので」「あまりクヨクヨ考えないから」と言われます。
他人が「これをやるぞ」と言ったことに、疑問を持たずに従う人は、チャッターが起きないのかもしれません。
本書にもあるように、「なぜそれをしなければいけないの?」と考えはじめるのが良くも悪くもチャッターの正体なわけですが、日本では、あまり「なぜ」と疑問を持つことはよくなかったのでしょうか。何か効率を重視する傾向があったのでしょうか。何か文化的違いがあるのならこういった知見には興味があります。
コロナ禍でチャッターが騒ぎ出した
一方で、コロナ禍でいままではなかったチャッターが騒ぎ出した人がたくさん現れました。「マスク、外していいの? つけなければいけないの?」「ワクチン、打つべき? 打つべきでない?」といった自分の判断基準を迫られることが増えたからだと言われています。
やはりこういったとき、自分のチャッターとの付き合いが長い人と、そうでない人では、チャッターの解決法の種類に差が出ると思います。
自分の行動にどれほど悪影響を与えるチャッターであっても、そのチャッターこそが自分自身です。であれば、それを避けるのではなく、その自分とどう対話し、自分ならではの必要な行動を作っていくかは、自分次第です。
よくないチャッターを建設的なセルフトークに変えていく。これは、メンタルトレーニングでは基本の一つです。
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