リベラルな社会にこそ「保守の価値観」が必要な訳 多様性が「対立」ではなく「共存」するための条件

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古川 雄嗣(ふるかわ ゆうじ)/教育学者、北海道教育大学旭川校准教授。1978年三重県生まれ。京都大学文学部および教育学部卒業。同大学大学院教育学研究科博士後期課程修了。博士(教育学)。専門は、教育哲学、道徳教育。著書に『偶然と運命――九鬼周造の倫理学』(ナカニシヤ出版、2015年)、『大人の道徳:西洋近代思想を問い直す』(東洋経済新報社、2018年)、共編著に『反「大学改革」論――若手からの問題提起』(ナカニシヤ出版、2017年)がある(写真:古川雄嗣)

ところが、リベラリズムは、このリベラルな社会の前提条件であるはずの中間団体を、むしろ破壊してきました。国家から個人を守る中間団体を、むしろ個人を抑圧する圧力団体とみなしたわけです。その結果、リベラリズムこそが全体主義を呼び寄せてしまいました。

したがってデニーンも、自治的な地域共同体などの中間団体を再活性化する以外に、民主主義の未来はないと考えているようです。中間団体の再生によって、国家の専制的な権力に対する「拮抗力」を取り戻すべきだという、リンドの見方と同じです。

それはそのとおりだと思うのですが、しかし、国家と中間団体との関係はもう少し複雑で、必ずしも拮抗関係だけではありません。たんに拮抗力としての中間団体を再生して多元主義を実現するだけなら、国家は多様な利益団体に引き裂かれてバラバラになってしまうでしょう。

つまり、本当に多元主義を実現するためには、多様な中間団体が自律的に存在して国家と拮抗すると同時に、それらが同じ1つの国家の下に統合されていなければならないという、矛盾した両面が必要だと思うのです。その点についてはいかがですか。

中野:おっしゃるとおりで、よく言われる多元主義の弱点として、中間団体がそんなにいいんだったら、じゃあ、ヤクザはどうだと(笑)。すごく中間団体が結束しているぞ、とかね。

それこそ、陰謀論者の集まりとか、特にSNS上では、すごく多元になっています。だけど、お互いまったくコミュニケーションが取れなくなっちゃっている。

多元性を「多元主義」に高めるもの

佐藤:「多元性」と「多元主義」は同じではありません。多元主義というからには、さまざまな意見の対立はあっても、それを最終的には統合して、全体が機能するようになっていなければならない。

まさにアメリカ建国のモットー「多をもって一となす」ですが、今や統合の枠組みが解体された結果、意見がちょっと違っただけでも、不倶戴天の敵だという話になりかねなくなっている。

リンドは本書で、トランプをヒトラーのごとく見なす傾向を批判していますが、これは確かに正しい。くだんの見解はトランプへの過大評価であり、同時にアメリカが抱える危機への過小評価です。

政治学者バーバラ・ウォルターが『アメリカは内戦に向かうのか』で指摘したとおり、専制的な権威主義体制のもとでも社会の統合は保たれます。トランプが真に独裁者の器で、専制支配を確立できるんだったら、ある意味、まだいいんですよ。真の問題は、民主主義と権威主義の間にあるアノクラシー(不完全民主主義)の状態を回避できるか。

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