誰も知らない昆虫標本を日本で初めてつくった男 「日本の博物館の父」と呼ばれる田中芳男

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とくに苦労したのが、その後の標本づくりだった。虫の殺し方や乾かし方に関する知識は皆無だった。虫にピンを刺して留めることは知っていたが、詳しい手法がわからないうえ、鉄針を用いたら錆が出てしまった。木綿針や絹針も試したが、これまたうまくいかない。やはり、西洋のピンがよいということで、開港場の横浜に問い合わせたところ、仕立屋にあるという。

そこで取り寄せてみたところ、仕立屋用のピン(スペルト)は、思ったより太かった。が、仕方がない。そのピンを用い、小伝馬町の店で買った桐箱に絹を敷き、昆虫を並べてピンで固定し、全部で56箱の標本を完成させたのである。

パリ万博で渡仏し、博物館にカルチャーショックを受ける

7月、万博への出品の品々が一同に並べられ、幕府の重臣が閲覧した。このおり芳男も昆虫標本をご覧に入れた。するとまもなく、「現地で展示品の陳列を手伝うように」とパリ行きを命じられたのだ。芳男が知識人であるうえオランダ語が話せることが、任命の理由だったと思われるが、まさか本人も現地へ行くとは思ってもいなかったろう。

こうして芳男は、日本の使節団に先発するかたちで、慶応2年(1866)12月、イギリス船でフランスへ旅立った。10人以上のメンバーがいたが、船は貸し切りだったので気楽なものだった。そのうち3名が柳橋の芸者だった。幕府は万博の日本パビリオンに茶店を設け、彼女たちに茶をもてなすパフォーマンスをさせたのである。これは大評判になった。

芳男の作成した昆虫標本も絶賛され、ナポレオン三世とパリの殖産協会から賞状と銀メダルを贈呈された。他人と競争するのは大嫌いな芳男だが、一人で研究・工夫に没頭するのはまったく苦にならず、それが結果として高評価につながったのだろう。

しかも万博閉会後、芳男の昆虫標本はロルザという昆虫学者が高値で購入してくれた。のちにロルザはこの標本を用いて論文を書いている。

パリ万博が終わると芳男はすぐに帰国しており、パリでの滞在はわずか7カ月にすぎなかったが、後年、芳男はその時期のことを次のように話している。

「暇があれば博覧会場を巡覧し、また、博物館や動物園或いは植物園に行き、市街にも行ってみました。それから、種苗商に就いて種々買入れ、わが邦に持ち帰りて宜しいような植物類を蒐めました。そこで博覧会において出品物を見ると、知識の開けておる様子……今日こうも知識が発達しておるかと、驚きいるものが少なくなかった。そこで、努めて見覚え、また、書き付けて参りました」(田中義信著『田中芳男十話・経歴談』田中芳男を知る会、2000年)

このように、パリの発展に感激した芳男は、ありとあらゆるものを目に焼きつけたのだ。とくに驚いたのは、フランス国立自然史博物館(ジャルダン・デ・プラント)だった。動物園や植物園も付設されている巨大な施設で、常に一般人に開放されている。館内の膨大な標本や遺物がわかりやすく分類・展示されており、なおかつ、生きたまま動物や植物を見ることもできる。国内外の諸産物を集め、その効能を広く出版物で紹介している芳男にとって、この施設のあり方はまさにカルチャーショックだった。

「自分がやりたいことは、まさにこれだ」

29歳の芳男は、パリに来て初めて己の生涯の道を見つけたのである。

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