誰も知らない昆虫標本を日本で初めてつくった男 「日本の博物館の父」と呼ばれる田中芳男
万延元年(1860)に遊学を終えた芳男は、郷里に戻って父の家業を手伝いながら、翻訳書や外国の原書を読みふけり、ガルバニー式越列幾機(電流を用いた医療機器)を自作したり、電気を用いた金銀メッキの実験をおこなっていた。そんな芳男のところに翌年、人生を大きく変える話が舞い込んでくる。
キュウリや白菜、リンゴなどを普及させる
師の伊藤圭介から「江戸へ行かないか」と誘われたのである。じつは圭介は、幕府の蕃書調所に招聘されることになっていた。蕃書調所は、天文方に置かれた洋書の翻訳や洋学研究をおこなう機関(蛮書和解御用を拡大改称)で、当時の頭取は古賀謹一郎、頭取助は勝海舟だった。
二人は、「諸外国との交易を振興し経済の発展をはかるため、国内諸産物の品質の善し悪しを確定する必要がある。そこで物産学(役に立つ動植物・鉱物、農工業の産物を調査・研究する学問)に秀でた学者を蕃書調所に招きたい」と幕府に建議した。この申請が受け入れられ、この伊藤圭介に白羽の矢が立ったというわけだ。
このおり圭介は、最も有能な弟子である芳男を伴うことにしたのである。文久2年(1862)、蕃書調所は洋書調所と改名し、新たに一橋門外に建物が新築されたが、さらに翌文久3年、開成所と改めた。ただ、開成所の物産方となった圭介は、本草学の大家ではあったが、殖産興業のための物産研究は得意ではなかった。しかも、攘夷主義者が江戸や横浜で外国人を殺し、洋学者を敵視する状況になったこともあり、強引に辞職を願い、郷里に帰ってしまった。
このため、物産方における調査・研究は、芳男が中心とならざるを得なかった。開成所には、アメリカ、フランス、ロシア、オランダ、イギリスなどから、さまざまな種子が続々と届けられた。
芳男はそれらの詳しい目録をつくり、九段坂上の薬草園や雑司ヶ谷の御鷹匠屋敷などで種をまいて栽培し、すべて試食するなどして有用性を一つ一つ確認していった。白菜やキャベツ、タマネギなども芳男によって試作され、出版物で紹介されて広まった。チューリップやキンギョソウなども芳男が紹介したとされる。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら