誰も知らない昆虫標本を日本で初めてつくった男 「日本の博物館の父」と呼ばれる田中芳男

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

慶応2年(1866)春には、越前藩邸に移植された西洋林檎の枝をいくつか譲り受け、それを海棠(バラ科の落葉低木)に接ぎ木することに成功。明治になると、この方式で西洋林檎が普及していった。翌慶応3年10月、アメリカから林檎が届いた。味見した芳男は、「こんなものが世の中にあるのか」と感激するほど美味だったので、お礼として冬瓜など日本の野菜や果物を箱詰めしてアメリカ側にプレゼントしている。

誰も知らない昆虫標本作製を命じられる

このように開成所物産方で日々、実践的な研究をしていた芳男のもとに、幕府から驚く命令が発せられた。それが、昆虫採集である。

慶応3年(1867)にパリで万国博覧会が開催されることになり、その前々年、フランス政府が江戸幕府に正式参加を要請してきたのである。将軍・徳川慶喜はこれを承諾し、万博にパビリオンを出展し、代表団を派遣することに決めた。

すると、フランスの昆虫学会が幕府に対し、日本に生息する昆虫標本の展示を依願してきたのである。

そこで幕閣が開成所に標本づくりを命じたというわけだ。が、もちろん誰も西洋の昆虫標本などをつくった経験はない。このため所員たちはみな敬遠し、仕方なく万屋を自認する芳男がその仕事を引き受け、幕府から「虫取り御用」に任じられたのである。

最初の仕事は、昆虫集めだった。

江戸に虫は少ないので、相模(現在の神奈川県)、伊豆、駿河(静岡県東部)、下総(千葉県北部・茨城県南部)へ出張して採集することにした。手伝いが2人、供が3人、合わせて6人の昆虫採集団が結成された。ただ「虫取り御用」という名では格好がつかないので、「物産取調御用」という名義をこしらえ、慶応2年2月から各地を回っていった。けれど、今度はその名称のせいで「地元の産物を調査し、課税されるのではないか」と警戒する地方の人々もいたという。

当時、虫を捕る網はなかったので、魚をすくう網を代用品として、可能な限り多くの虫を捕まえていった。また、せっかく各地をめぐるのだから、植物や石、さらには温泉の水まで長持に入れて持ち帰った。

次ページ博物館にカルチャーショックを受ける
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事