誰も知らない昆虫標本を日本で初めてつくった男 「日本の博物館の父」と呼ばれる田中芳男

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(写真:y_seki/PIXTA)
歴史研究が進んで従来のイメージを覆すような新説が明らかになってきました。日本史の教科書では語られることのない「歴史の裏側」を取り上げた、歴史研究家の河合敦さんの著書『日本史の裏側』より一部抜粋してお届けします。

漢方医の三男として生まれ、薬学や博物学を学ぶ

田中芳男、現代でも同姓同名が多くいそうな名前だが、幕末から明治に活躍した人物だ。「日本の博物館の父」と呼ばれ、東京国立博物館や上野動物園などを設立したが、田中芳男が博物館の設置に力を注ごうとしたのは、幕末にパリにいったことがきっかけだった。なぜ江戸時代に洋行し、いったいパリで何をしたのか、そのあたりから芳男について語っていこう。

田中芳男は、天保9年(1838)に田中隆三の三男として飯田城下(現在の長野県飯田市)の千村陣屋で生まれた。千村陣屋というのは、旗本の千村平右衛門が榑木山を管理し村々から年貢を徴収するために置いた役所で、隆三は陣屋で漢方医として働いていた。だから幼い頃から芳男は、父と山野を跋渉して植物を採取してはさまざまな薬を製したので、本草学(いまの薬学、博物学)に興味を覚え、父の蔵書を次々と読破していった。

安政元年(1854)、兄の文輔が病歿したので、17歳の芳男が田中家を継ぐことになった。が、学びたい気持ちをどうしても抑えられず、当時も都会だった名古屋城下に出て尾張藩の儒学者・塚田氏に漢書を学び、さらに翌年、伊藤圭介に弟子入りして蘭学や本草学を学び始めた。

伊藤圭介は、長崎でシーボルト(ドイツ人医師)に直接教えを受け、彼から与えられたツンベルクの『日本植物誌』を翻訳・出版したことで、医学界でその名が知れ渡っていた。芳男の弟子入りは、尾張藩がちょうど圭介に種痘法(天然痘の予防接種)を命じた頃で、芳男もその手伝いをしたという。

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