誰も知らない昆虫標本を日本で初めてつくった男 「日本の博物館の父」と呼ばれる田中芳男
こうしてパリから帰国したまさにその月、将軍・慶喜が大政奉還して江戸幕府は形式的に消滅し、半年後の翌慶応4年(明治元年・1868)4月、江戸城は新政府軍に無血開城した。だが、芳男はその動乱の時期にあっても開成所で研究をし続けた。やがて芳男はその専門性を買われて明治政府に仕え、明治6年(1873)のウィーン万博、明治9年のフィラデルフィア万博の日本展示を指揮し、明治十年の内国産業博覧会など国内の展覧会・博覧会の多くを主導していった。同時に上野の東京国立博物館や上野動物園設立にかかわり、さらに伊勢神宮に農業館を設立した。
芳男のコンセプトは、わかりやすい展示・解説、人々の生活に役に立つ博物館・博覧会であった。芳男の脳裏には、つねに幼い頃に父から教えられた『三字教』(中国の宋代の子供用儒教テキスト)の教えがあった。
芳男が晩年に語ったこと
76歳と79歳のとき、芳男は講演の中で次のように話している。
「私は幼年の時に、専ら親から教わって覚えたのは、三字教に出ておることである。親から書き抜いて貰って導かれた中に、最も身に染みましたのは、ちょっと読んでみますが、末のほうに、「犬は夜を守り、鶏は晨を司る、苟も学ばざれば、なんぞ人とならん。蚕は糸を吐き、蜂は蜜を醸す、人学ばざれば、物にしかず云々」とありまして」「これについて親から訓誡を与えられました。「人たる者は、世の中に生まれ出たからは、自分相応な仕事をし、世用を済さなければならぬ」と懇々と教えられました。それで、自分もこの至極な道理を深く深く感得しまして、これが把柄となって、田中芳男の一生涯の精神となりました」「私はこれを以て親から導かれて、私の一生の精神となったのであります。農商務省におるにも、博覧会の審査官になるにも、伊勢の農業館に従事するにも、矢張りこの精神を失わずにやっておりました」(『前掲書』)
78歳のとき、芳男はこれまでの功績を讃えられて男爵を授けられ、翌大正5年(1916)に79歳の生涯を閉じたのである。
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