承久の乱「後鳥羽上皇」惨敗させた三浦義村の決断 わずか1カ月で全面降伏、背景にある誤算とは?

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後鳥羽上皇御影塔
岡山県倉敷市にある後鳥羽上皇御影塔(写真:くろうさぎ/PIXTA)
後鳥羽上皇は承久3(1221)年、鎌倉幕府に奪われた権力を、朝廷に取り戻そうとした。「承久の乱」と呼ばれるこの戦いで、後鳥羽上皇が討伐を目論んだのは、幕府で実権を握る北条義時である。
義時は3代将軍の源実朝亡きあと、わずか2歳の三寅(藤原頼経)を第4代将軍に擁立。自分は執権として武士たちのトップとなり、権勢を誇った。そんななか、源氏将軍の血筋が途絶えたタイミングでの上皇の反乱である。
幕府につくか、上皇につくか。武士たちが選択を迫られるなか、キーマンとなったのが、有力御家人の三浦義村である。はたして、義村はどんな道を選んだのか。弟の胤義との運命の分かれ道も含めて解説する。

わずか1カ月で全面降伏した後鳥羽上皇

独裁的な政治を行う北条義時を討伐するべし――。

後鳥羽上皇が各地の御家人にそう命じたのは、承久3(1221)年5月15日のことである。『吾妻鏡』には、次のようにある。

「勅命に応じて右京兆を誅殺せよ。勲功の恩賞は申請どおりにする」

「右京兆」とは「右京権大夫」という官位の唐名で、この場合は「北条義時」を指している。義時が名指しされていることから、「後鳥羽上皇の目的は倒幕ではなく、義時を討つことだった」とする説もある。

だが、4代将軍となるべく、2歳のときに摂関家から鎌倉へと赴いた九条頼経(藤原頼経)は当時まだ4歳。征夷大将軍の座につくのは9歳なので、厳密には、このとき鎌倉将軍の座は空位だった。幕府の最高権力者である義時を征伐するということは、幕府を無力化することにほかならず、目的は「倒幕」以外のなにものでもない。これが「承久の乱」の始まりである。

「承久の乱」が起きたことで、朝廷と武家政権が日本史史上、初めて武力で争うことになった。だが、その結果はといえば、鎌倉幕府の圧勝。義時の追討が命じられてから、たった1カ月後の6月15日には、後鳥羽上皇は全面降伏の院宣を出している。

こんなにあっさり負けていったい何がしたかったんだか……と後世からは評価されがちだが、後鳥羽上皇は何も勝算なく、幕府に挑んだわけではなかった。

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