承久の乱「後鳥羽上皇」惨敗させた三浦義村の決断 わずか1カ月で全面降伏、背景にある誤算とは?

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胤義の妻は、頼朝の右筆として仕えた法橋昌寛の娘で、第2代将軍の源頼家の愛妾とされる女性だ。頼家との間に子の禅暁をもうけたが、頼家は北条時政によって死に追いやられたうえに、子の禅暁も北条義時に命を奪われた。そのため、胤義の妻は今でも日々泣き暮らしているという。

「都に上って院に召されて、謀反を起こして鎌倉に一矢報いたい」

妻思いの胤義がちょうどそう考えていたときに、上皇から義時討伐を命じられたのだという。『承久記』は京都側の人の手によって記載されているだけに、誇張されている可能性は高いが、北条氏との間に因縁があったことには違いないだろう。

今こそ立ち上がるべしと、胤義は上皇に従うことを決意。京方の主力として、鎌倉幕府と戦うこととなった。

三浦義村は弟から決起を促されても応じず

北条氏への不満をくすぐり、三浦胤義の心をとらえた後鳥羽上皇。どうも近臣の藤原秀康からアドバイスを受けたらしい。御所に呼ばれた秀康は「三浦義村の弟、胤義が検非違使として在京しているので、相談すれば、義時を討つのはたやすい」と上皇に伝えている。計画どおりに、胤義を味方につけて、まさにそのもくろみどおりにいくかに思えた。

しかし、要所要所で決して判断を間違えないのが、三浦義村という男である。弟の胤義から使者が訪れても、返事すらせずに追い返した。そして、義時に書状を出して、弟から決起を促されたことを伝えている。

弟の誘いを一蹴した義村が、いち早く幕府への忠誠を表明したことで、ほかの有力御家人たちもそれにならった。また、幕府の求心力を高めるために義時の姉、北条政子も一役買っている。

前述したように、西国の守護たちのなかには、上皇の命令に従った者もいたが、守護は将軍から任命された役職に過ぎない。自分たちの守護が上皇につこうがつくまいが関係なく、地方の武士たちは「幕府と朝廷のどちらにつけば、自分たちの土地を保障してくれるのか」と考える。

だからこそ、後鳥羽上皇の挙兵が明らかになると、北条政子は御家人たちを御簾のそばに呼び寄せ、あの有名な訴えによって恩賞について強調したのである。

「皆、心を一つにして承るように。これが最後の言葉である。故右大将軍が朝敵を征伐し、関東を草創して以後、官位といい、俸禄といい、その恩は既に山よりも高く、海よりも深い」(『吾妻鏡』より)

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