承久の乱「後鳥羽上皇」惨敗させた三浦義村の決断 わずか1カ月で全面降伏、背景にある誤算とは?
「故右大将軍」とは源頼朝のことだ。シチュエーションや演説の内容は文献によって違いがあるが、『吾妻鏡』では「藤原秀康・三浦胤義を討ち取って、源氏3代の将軍が遺したものを最後まで守りなさい」と言っている。
この言葉を聞くまでもなく、結集している時点で、義時に味方することを決めていたことだろう。それでも、こうして改めて宣言されることで、幕府の体制を堅持する意義の大きさを、御家人たちはかみしめたに違いない。頼朝の妻、政子しかできない原点回帰であった。
兄たちの軍が来るのを待っていた三浦胤義
蓋をあけてみれば、圧倒的な兵力で勝ったのは幕府軍のほうであり、京に攻め入られた上皇側は早々とギブアップしている。幕府軍の総大将を務めたのは、北条義時の息子、北条泰時だ。6月15日、後鳥羽上皇は泰時に使者を送って、こんな院宣を伝えた。
「乱を起こした藤原秀康、三浦胤義らは、追討命令を出す」
後鳥羽上皇は、幕府への反乱をすべて藤原秀康と三浦胤義の責任としたのである。あわせて「政務に口出しはしない」ことや「武士たちを出仕させない」ことも約束している。まさに全面降伏だ。
哀れな三浦胤義はどうしていたかというと、敗戦が濃厚になると、東寺に引きこもり、兄たちの軍が来るのをただ待った。「他人に討たれるくらいならば」という思いがあったのだろう。『承久記(慈光寺本)』では、兄弟は最後に再会を果たしたとしている。
弟が「最後にあなたの顔をみたくてここにきた」と熱弁すると、義村はただ一言、こう言って、その場を立ち去ったという。
「愚か者と掛け合っても無駄なことだ」
戦に敗れて自害した三浦胤義の首は、兄・義村の手によって、北条義時へと渡されたという。こうして「承久の乱」は上皇の大敗に終わった。戦後処理においても、三浦義村は存在感を発揮。後鳥羽上皇は出家して、隠岐へと流されている。
【参考文献】
『全訳 吾妻鏡』(貴志正造訳注・新人物往来社)
『承久記』(松林靖明校注・現代思潮新社)
渡辺保『北条政子』(吉川弘文館)
高橋秀樹『北条氏と三浦氏』(吉川弘文館)
安田元久『北条義時』(吉川弘文館)
山本みなみ『史伝 北条義時』(小学館)
野口実『北条時政』(ミネルヴァ日本評伝選)
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