北条に敗北「後鳥羽上皇」権力を握った意外な経緯 義時追討に動いた「承久の乱」はなぜ起きた?

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後鳥羽上皇の御影塔
倉敷市にある後鳥羽上皇の御影塔(写真:くろうさぎ/PIXTA)

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、後鳥羽上皇(院)を歌舞伎役者の尾上松也さんが演じていますが、上皇は同ドラマにおいては「ラスボス」(物語の最終局面に待ち受けているボスキャラ)的な位置付けになっています。それは、上皇が主人公・北条義時を打倒するため挙兵し、承久の乱(1221年)が勃発することを指してのことでしょう。承久の乱は、物語終盤の見どころの1つです。

では、この後鳥羽上皇とはどのような人物だったのでしょうか。

平家が倒されなければ表舞台に立つことはなかった?

上皇は、治承4(1180)年7月、高倉天皇の第4皇子として生を受けました。母は、坊門信隆の娘・殖子。高倉天皇の中宮は平徳子(平清盛の娘)であり、徳子は安徳天皇を産んでいます(安徳天皇は、1178年生まれ)。つまり、安徳天皇と後鳥羽天皇は、異母兄弟の関係にあったのでした。世が平穏であったならば、後鳥羽天皇が後にこれほど歴史の表舞台に立つことはなかったかもしれません。

しかし、世は平家政権の末期。治承4年8月には、源頼朝を中心とする勢力が、反平家の旗を掲げて挙兵。寿永2年(1183)7月には、木曽(源)義仲の軍勢が都に迫り、対抗できぬとみた平家一門は、幼い安徳天皇を連れて、西国に落ちてゆくのでした(平家都落ち)。

都に天皇がいなくなるという異常事態。この状態を解消するために、後白河法皇(安徳・後鳥羽の祖父)を中心に、新帝の即位が進められます。高倉天皇の第2皇子・守貞親王(母は殖子)も、安徳天皇とともに、平家によって連れ去られ、西海にありました。

よって、新帝の候補は、第3皇子の惟明親王(父は高倉天皇。母は平範子)と、亡き以仁王(後白河法皇の第3皇子。平家討滅のため挙兵し、敗死する)の遺児・北陸宮(源義仲は北陸宮を推していた)、そして、第4皇子の尊成親王(後の後鳥羽上皇)でした。後白河法皇の後押しもあり、尊成親王が践祚(天皇の位を受け継ぐこと)することになります。

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