北条に敗北「後鳥羽上皇」権力を握った意外な経緯 義時追討に動いた「承久の乱」はなぜ起きた?
『愚管抄』(鎌倉時代初期の僧侶・慈円が書いた史論書)は、この時の後鳥羽院の気持ちを「どうしてこの先、この日本国を2つに分けるようなことができようか」と記しています。友好的な実朝亡き今、自らの皇子を鎌倉に下すことは、日本国分裂のもとになると院は踏んでいたのです。実朝暗殺は朝廷と幕府の関係を悪化させ、承久の乱の遠因の1つになったのでした。
周知のように、承久の乱は、後鳥羽院方の敗北に終わります。それにより、後鳥羽院は後世まで、徳なき上皇として批判の対象となってしまうのです。しかし、後鳥羽院は蹴鞠・琵琶・秦箏・笛などの芸能や、相撲・水練・射芸などの武技をもたしなむ多才多芸な人でした。中世屈指の歌人としても有名です(そうした方面からの院の再評価も行われています)。
配流後、都に帰そうという動きもあった
承久の乱の敗北後、後鳥羽院は隠岐島(島根県)に配流となります。後鳥羽は二度と都の土を踏むことはありませんでした。延応元(1239)年、隠岐島で崩御したのです。
実は、後鳥羽院を都に帰そうという動きもありました(九条道家が中心となってこの運動を展開したようです)。が、北条泰時(義時の嫡男、3代執権)により、この要求は拒否されます。後鳥羽院の帰京は、混乱を招くことになると、泰時は考えたのでしょう。このことは、後鳥羽院の存在の大きさを示すものといえます。
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