北条に敗北「後鳥羽上皇」権力を握った意外な経緯 義時追討に動いた「承久の乱」はなぜ起きた?

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皇位の象徴である三種の神器(八咫鏡 ・草薙剣 ・八坂瓊曲玉)は平家によって持ち去られており、後鳥羽は神器なき践祚をしたことになります。1185年、平家は壇ノ浦で滅亡することになりますが、このとき、神器の1つである宝剣は、海上に没し、二度と見つかることはありませんでした。

1190年、後鳥羽の元服の儀が行われますが、このときも、宝剣を欠いた儀式となりました。神器なき践祚をしたことは、後年まで後鳥羽のコンプレックスとなったともいわれています。このコンプレックスを解消するためには、強力な王権の存在を内外に示す必要がある。その意気込みが、承久の乱の遠因となったのでは、との見解もあります。

建久3(1192)年、後白河法皇が崩御します。天皇親政になったとはいえ、朝廷は九条兼実が主導していました(1196年、兼実は政変により失脚)。建久9(1198)年、後鳥羽は、土御門天皇(後鳥羽の第1皇子)に譲位。以後、院政を開始します。それは、承久の乱が起こる1221年まで、土御門・順徳・仲恭天皇の3代、23年にわたり続くことになるのです。

鎌倉幕府の打倒を最初は考えていなかった

後鳥羽院は、何も最初から鎌倉幕府を打倒しようとしたわけではありません。幕府3代将軍・源実朝との関係は密でした(生母の弟である坊門信清の娘を実朝の妻として鎌倉に下向させていた)。

実朝と正室の間には子どもがなく、幕府では後継者問題が持ち上がっていました。幕府は後鳥羽院の皇子をいずれは4代将軍として鎌倉に迎えたいと考えていたのです。それは、公武(朝廷と幕府)融和につながりますし、朝廷が幕府を動かすことも容易になる。そのような考えもあり、後鳥羽も宮将軍構想に積極的でした。

ところが、建保7年(1219)、実朝は甥の公暁(幕府2代将軍・源頼家の遺児)によって、鎌倉は鶴岡八幡宮において殺害されてしまうのです。実朝暗殺により、後鳥羽院の考えは急転します。親王の派遣を拒絶することになるのです。

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