例えば、渋江抽斎の医学の師匠の史伝『伊澤蘭軒』を執筆した際。伊澤蘭軒が植物に詳しかったこともあり、鴎外は史伝『伊澤蘭軒』になんと100種類以上もの植物を登場させている。
だが、その史料読みにあたり、「いったいここに書かれてある樹の名前がどの樹のことを指しているのか」を特定する作業が、大変難航したらしい。たしかに、昔の人の記録を読んで、昔の植物名を特定するなんて、考えただけでも気の遠くなる作業である……。
そこで頼ったのが、またしても牧野富太郎であった。鴎外は後に「救を牧野氏に求めた」と振り返る。
この後、富太郎は鴎外の問いに対し、「あかめがしはは普通に梓としてある。上野公園入口の左側土堤の前、人力車の集る処に列植してある。マルロツス属の木である」(『伊澤蘭軒』)などと教えていた。つまり、樹木について聞かれて「あーその樹は上野公園入口の左側土堤の前、人力車のあるあたりにありますよ~」と答えていたのだという。
富太郎は都内の樹木の配置をほとんど把握していたのだろうか……。牧野富太郎の植物オタクっぷりがよくわかるエピソードだ。そりゃ、鴎外も頼るよな。
牧野富太郎は森鴎外に好印象を持っていた
もはや植物に関する便利屋になっていそうな富太郎だが、富太郎も鴎外について以下のように述懐する。編集者に「植物漢字典を作ってほしい」と頼まれたときのことだ。
そう、富太郎も富太郎で、植物の研究について熱心な鴎外のことを、とても快く思っていたらしい。実は、森鴎外は無類の植物好きだったことがわかっている。彼の自宅・観潮楼の庭には、たくさんの草花が植えられていた。鴎外は当時にしては珍しく、ガーデニングが趣味だったのである!
鴎外の日記には、庭いじりしたとか、花が咲いたとか、植物に関する記述が多々出てくる。自分の植えた庭の花が、いつ咲いたか、という記録まで逐一残していたらしい。そりゃ、牧野富太郎とも話が合うはずであろう。
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