母親のがんが発覚したのは、彼女が9歳の時だった。看病をしながら、バイトを続け、年下のきょうだいの面倒を見る日々が続いていた。
「母が病を患って亡くなるまでの数年間も、忙し過ぎて記憶がないんです」
そこまで語ると、急に大きな瞳から涙がポロポロとこぼれ落ちた。
「ごめんなさい。母を想うと、いまだに涙が出てしまう。それくらい、私にとっては太陽のような大きな存在でした。父親ももちろん同じですけど、母は43歳とまだ若いうちに亡くなってしまったから」
他にも少女時代の苦難のエピソードは枚挙にいとまがない。やっと成功しかけた家を火事で失う、ムチ打ちと聞いていた母の病が重いがんだった……etc. それでも自分を不幸だと思ったことはない。出来事の全てを前向きに捉えられたのは、他ならぬ、両親のおかげだという。
「たとえば、私が顔の怪我で絶望していた時、母親は美しくなるための“4つの魔法”を教えてくれました。曰く、本物の美人とは、一緒にいて心地よい人のこと。そのためには、姿勢を良くして、口角を上げること。相手の目を見て、よく話を聞くことだと。この4つを守っていたら、私自身の心持ちも、周囲からの見られ方も、確実に変わっていきました。両親には絶対的な愛情とともに、生き方、考え方、いろんなことを授けてもらったんです」
2度のパリコレ挑戦と、自分なりの成功法則
最愛の母に導かれて歩み始めたモデルの道だが、実は父親は猛反対していた。成績優秀なアンミカには大学に行ってほしいと願っていたのだ。モデルを続ける条件として、家を出ること、一流のモデルになるまで実家の敷居を跨がないこと、資格を取って自分に付加価値をつけることを提示され、高校卒業後は家を出ることに。後にこの条件は父の最大の愛であり応援だったと知るが、この時はもう後戻りできない状況だった。
事務所に所属していたが、仕事はほとんどなかった。
「服飾専門学校のデッサンモデルとなり、レオタードにハイヒールで立ちっぱなしとか。それで、1日5000円もらえれば最高……というくらい仕事がなかったんです」
そんな時期、起死回生を図ってもくろんだのが、パリコレへの挑戦だ。
ファッションの聖地、パリで年に2回行われる、世界最大のファッションイベントに出演することは、一流モデルの証しである。
当時は、世界中でスーパーモデルブームが巻き起こっていた。当時のスーパーモデルといえば、ナオミ・キャンベルやクラウディア・シファーなど、圧倒的な容姿と、ハリウッドセレブさながらの華やかな生活を送る面々のこと。パリコレは、そんなスーパーモデルに近づくためのキャリアパスでもあった。
売れっ子モデルでも躊躇するほどの大挑戦だが、19歳のアンミカは1人でパリへと向かった。
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