本人も説明不能?浅井長政、信長を裏切る謎の真相 とことんついていった徳川家康とは対照的

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だが、勢力を拡大すれば、さらなる強敵からにらまれるのが戦国時代である。

天文7(1538)年、高清が71歳で死去して予定どおりに長男の高広が後を継ぐと、不穏な空気が流れ出す。かつて跡継ぎの座を争った次男の高慶が、近江の最大勢力である戦国大名の六角定頼と手を組んだのだ。六角軍が勢いのある浅井を叩くべく、出陣してきた。

さて、このときである。『浅井三代記』など後世の軍記物では、朝倉教景(宗滴)が浅井氏救援にかけつけて、仲介に入って和議を結んだ……とされている。つまり、亮政が強敵の六角定頼に潰されそうになったとき、朝倉氏が手を差し伸べてくれたことになる。

このときの義理があったために、亮政の孫にあたる長政は、同盟相手である信長が朝倉氏を攻めたときに葛藤した。そして悩みに悩んだ末に、信長を裏切ってまで、朝倉との関係を重視した……と言われてきた。

だが、「朝倉と浅井が同盟関係にあった」とするのは、架空の軍談も含まれた江戸時代の史料的価値が低い創作物から生まれた説にすぎない。浅井が朝倉に代々にわたって恩義を感じるほど強い結びつきはなかったようだ。

実際には朝倉氏をバックにつけることもなく、浅井亮政は六角との戦いに敗れた。その後は和議を結び、六角定頼のもとで地位を維持する。

長政の父・久政には戦の才はなし

天文11(1542)年に亮政が没すると、長男の久政が後を継ぐことになる。亮政には多くの子がいたが、六角定頼の影響下にあったため、内紛もなく後継者が久政に決まったようだ。六角定頼からその子である義賢へと実権が移っても、浅井氏との関係は変わらなかった。

どうも久政には、下剋上を果たした父の亮政のような勇猛さはなかったらしい。六角氏の勢いに押されるなかで、嫡男には六角義賢の一字「賢」の字を偏諱として受けさせている。そのうえ、嫡男の妻として、義賢の重臣である平井定武の娘を迎えた。

六角の影響をもろに受けたこの嫡男こそが、のちの浅井長政である。長政は15歳で元服すると、妻と離別。併せて永禄3(1560)年に家督を継いで、翌年には「賢政」から「長政」へと改名している。いずれも六角氏の影響下から抜け出そうとする、浅井氏の強い意図が感じられる。

そうして六角氏から離れた長政が新たに関係を作ったのが、台頭著しい織田信長であった。再婚相手として信長の妹、市を迎えたのは永禄2~5年あたりとみられている。この婚姻についてだが、長政が裏切った理由として、次のようなものもよく見られる。

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