文明2(1470)年、応仁の乱の最中に近江守護の京極持清が死去すると、実に約50年にもわたって、北近江では騒乱が続くことになる。京極氏の後継問題で混乱するなか、台頭したのが「浅井三代」の基礎を築いた浅井亮政だった。
亮政は延徳3(1491)年、京極氏の家臣である浅井直種のもとに生まれた。この時期の京極氏の当主は高清である。大永元(1521)年に、京極氏の執権だった上坂家信が死去。子の信光が執権を継ぐと、政情は不安定になり、20代を迎えたばかりの浅井亮政が、歴史の表舞台へと現れ始める。
問題となったのは、当主の京極高清が長男の高広(高延)を疎んじて、側近の上坂信光とともに、後継の座に次男の高慶(高吉)を据えようとしたことだ。
当時の浅井亮政は京極氏の傘下の国衆の1人に過ぎなかったが、高清の計画に反旗を翻す。同じく近江国衆の浅見貞則とともに、長男の高広の擁立に動いた。『江北記』によると、大永3(1523)年に浅井らは浅見と相談して、小野江城に立てこもったという。
京極氏を二分するお家騒動となったが、制したのは浅井や浅見らの国衆側だった。長男の高広が京極家の家督を継いで、浅見貞則が執権を務めることとなる。
今度は浅見貞則が専横を振るう
亮政の思惑どおりになったかに見えたが、パワーバランスの変化はいつでも新たな問題を生み出すもの。今度は浅見貞則が専横を振るうようになった。そこで亮政は、かつて対立した上坂信光と和睦。浅見から実権を奪い取っている。
その象徴ともいえるイベントが、天文3(1534)年8月20日に行われた。亮政は京極高清と京極高広の親子を小谷の宿所に招いて饗応、つまり、酒食で接待している。浅井亮政がほかの国人とは一線を画した有力者になったことが、北近江の地で示されることとなった。
すべての発端は、京極氏の同族争いにあった。混乱と見るやそのチャンスを逃さずに、浅井亮政は下刻上に成功したのである。
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