トベルスキーとカーネマンは、特定の事象が起こる確率に関して、客観確率と主観確率に乖離が生じることを実験によって見いだした。
それは、客観確率が低いと思われる人たちは、状況を楽観的に捉えがちで主観確率が高めになる一方、高いと思われる人たちは悲観的になりやすく主観確率が低めになるということだ。つまり、主観確率は客観確率に加重された結果なのである。
もともと合格確率が高い人や健康な人ほど「祈る」
たとえば、入学試験を控えた受験生について考えてみよう。模試で志望校がE判定の受験生は「うまくすれば合格できるかもしれない」と思っている一方、A判定やB判定の出ている受験生は「当日に体調が悪くて失敗するかもしれない」と心配しているといった具合である。
このとき、寺社に詣でて合格祈願の札をもらったり、絵馬を掛けたりするのは後者のほうだろう。なぜなら、客観確率と主観確率のギャップを神仏の力によって埋めようとするからだ。そして、E判定の受験生は、もともと合格確率が低いことを承知しているので、祈願にカネや時間をかけるのは無駄だと思うのではないか。
これは健康祈願にも当てはまるだろう。日頃から自身の健康に留意し、状態もいい人たちは「もしかしたら病気に罹るかも」と心配して祈願をするだろうが、暴飲暴食を厭わない人たちは「元気だし大丈夫だろう」と楽観的に考え、祈願をしないかもしれない。
このような状況を想定した場合、当然ながらご利益は存在することになる。なぜなら、もともと合格確率の高い受験生や健康に留意している人たちが祈願しているからである。そして、「生存者バイアス」の働きによって、ご利益のあった人たちの情報が表に出やすいため、それが評判となり、ますます客観確率の高い人たちを寺社に呼び寄せるという循環が生まれると考えられる。
以上のように、私たちが日常的に行っている「祈り」には経済的な合理性はないものの、心理学的な要素が働いて、それが継続をもたらしていることがわかる。それゆえに、どのように科学が進歩しても、世の中に不確実な現象が存在する限り、私たちが「祈り」を止めることはないといえるだろう。
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