徳川家康「信長に戦で捨てられても従属」の深い訳 越前侵攻中に起こった浅井長政の裏切りで混乱

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4月20日、信長は越前の朝倉攻めを決行。理由は、将軍である足利義昭の命令として、各地の大名に上洛を要請したにもかかわらず、朝倉義景がこれを無視したからである。義景からすれば、上洛によって越前を空けることに不安があった。さらにいえば、信長に従うつもりなど毛頭なかったのである。

そんな反抗的な朝倉義景を成敗すべく、信長は兵をあげる。家康も従軍することとなった。

信長軍はたちまち手筒山城、そして金ヶ崎城も落とすことに成功。ここまではスムーズだった。いよいよ朝倉義景がこもっている一条谷城へと進軍しようとした……そのときである。

「北近江の浅井長政が裏切った」という情報が、信長陣営にまで入ってきた。『信長公記』では「浅井が背いたというのは誤報であろうと思った」と信長が狼狽する様子が描かれている。それも無理もない。浅井長政のもとに信長は妹の市を嫁がせて、両者は同盟を結んでいるのだ。

それでも、同様の知らせが各方面から入ってくると、信長も頭を切り替えている。このままでは挟み撃ちにされてしまう。信長は「やむをえぬ」というと、越前から撤退している。

家康は前線に残されたまま

このとき、信長が羽柴秀吉に殿(しんがり)を任せて、九死に一生を得たことはよく知られている。家康はどうなったかといえば、信長から何の知らせもなかったらしい。『三河物語』では、このときの信長の所業をこう書き記している。

「家康を前線に残したまま、何の連絡もなく、宵のうちに退却した。家康は、そのことをご存じなかったのか、夜があけて、木下藤吉に案内させて退却した」

信長に見捨てられた家康。秀吉と協力して、敵の追撃をかわしながら退却を図る。『徳川実紀』では、大勢の敵に秀吉の軍勢が取り囲まれると、家康自ら前線で鉄砲を撃って応戦したとも記されている。これには秀吉も家康にこう感謝したという。

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