徳川家康「信長に戦で捨てられても従属」の深い訳 越前侵攻中に起こった浅井長政の裏切りで混乱

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桶狭間の戦いの後、家康が三河平定に動くなかで、信長はどのように動いていたか。家康に東方の守りを任せた信長は、美濃へと本格的に侵攻していく。斎藤竜興の居城である稲葉山城を落とすと、「岐阜城」と改名し自らの居城とした。

そして永禄11(1568)年9月26日、信長は足利義昭を奉じて上洛を果たす。ちょうど家康は遠江へ、信玄は駿河へと、攻め込もうとしていた時期である。

今川領を分割すべく、家康と信玄の密約をあっせんしたのは、信長とされている。そうして信玄の目を駿河に向けさせながら、信長は上洛の準備を着々と進めていたのである。

上洛から1カ月も経たない10月18日には、義昭が征夷大将軍の座につく。すべて信長の思惑どおりとなった。

諸国の大名たちに上洛命令を発した信長

信長が天下を見据えて義昭を傀儡としようとしたのか、あるいは軍事力を持って室町幕府を再興させようとしていたのかは諸説ある。いずれにしても、信長が将軍の後見人として権勢を振るうこととなった。このころから、家康が信長から命じられ援軍として駆り出される機会が増えていく。

永禄13(1570)年の正月、信長は諸国の大名たちに上洛命令を発する。命令を受けて、家康は2月に岐阜に赴き、3月に信長とともに上洛した。信長の旧臣である太田和泉守牛一が慶長15(1610)年ごろに完成させた『信長公記』には、活気あふれる京の様子が記載されている。

「畿内・隣国の大名・武将たち、また三河からは徳川家康が上洛してきた。皆が信長にあいさつにきたので、大変な賑わいであった」

満足気な信長の顔が思い浮かぶようだ。数日後には、将軍御所の完成を祝う会が催されて、能のイベントが行われた。同じく『信長公記』の記載によると、能の見物に家康も参加したらしい。そんなしばしの休息はあったものの、信長の命令で、家康はすぐに戦へと駆り出される。

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