家康が敗れた「三方ヶ原の戦い」信玄の巧みな戦略 周囲の反対を押し切って戦った家康だったが…
今年の大河ドラマ『どうする家康』は、徳川家康が主人公。主役を松本潤さんが務めている。その家康を苦しめ続けるのが、阿部寛さん演じる武田信玄だ。今回は、三方ヶ原の戦いで、家康が信玄に敗れた背景を分析する。
元亀3年(1572年)10月3日、武田信玄は甲府を発し、同月10日には、遠江国に乱入した。信玄の本隊は、駿河国から遠江国へ西進。徳川方で、高天神城(静岡県掛川市)城主の小笠原氏助が降伏する。
一方、武田方の別働隊(山県昌景・秋山虎繁ら)は、信州伊那から遠江に侵入して本隊と合流し、二俣城(静岡県浜松市)を攻めようとした。
続々と武田方に降伏
高天神城の小笠原氏はほぼ戦うことなく降伏したが、ほかの遠江の豪族も続々と武田に降る。信玄は、降伏してきた豪族の所領の安堵(先祖代々が治めていた領地を保証する)を行った。
この時代、戦の前に敵方への調略を行うことが一般的だった。信玄は同年の7月には、奥三河の山家三方衆(奥平氏・長篠の菅沼氏・田峯の菅沼氏)を従わせている。飛騨や美濃郡上方面の豪族への調略も同時期に行っていた。10月の出陣までに、ジワリジワリと準備をしていたのである。
順調に遠江に侵攻した信玄は、11月上旬には、二俣城を攻める。城には、徳川方の中根正照と青木又四郎が籠もっていた。信玄は同城を「一気に攻め落とそう」と考えたようだが、重臣の山県昌景と馬場信春が城の周囲を回ったうえで「この城の土塁は高く、一気に攻め落とすことはできません。竹束を持って攻め寄せ、水手を取る(水源を断つ)ならば、すぐに落城するでしょう」(『三河物語』)と助言したので、その意見に従って、攻めることにした。
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